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3ヶ月ぶりのG大病院② [病気及び治療経過]

 前回同様3ヶ月ぶり、正確には13週ぶりのG大病院の診療が一昨日あった。車の流れがよく過去最短の1時間10分程度で、9時ごろ病院前の右折車線に車を着けることができた。がそこからが長かった。駐車場に車を収めて受付機に診察カードを通したのが9時24分。この日は、医学部の入学試験の日でもあった。それから30分ほどで採血検査を済ませ、予約時間10時30分の診察を泌尿器科外来で待った。
 「××さん、診察室一番へどうぞ」といういつものS先生の歯切れのよい声が聞こえてこない。普段の3倍くらいの間隔で、別人の呼び声がスピーカーから流れてくる。おやっと思って受付を覗いてみると、S先生休診のお知らせが貼ってある。3ヶ月ぶりにお会いできるものと思っていたからちょっとがっかりした。が、しかし、カルテがあって代理の先生が診てくれるのだから、支障はないはずだ。
 しかし、なかなか番が回ってこない。明らかにいつもとテンポが違う。いくら待ち時間があっても、待ち時間がはっきりしていれば、その間は読書をしたりメールを打ったりして有効活用できるのだが、まだか、まだかと思っていると、読んでいるものにも集中できない。結局、ただ待っていることになる。
 採血から1時間以上たつので検査結果も出ているはずと思い、受付で血液検査の結果をもらいたい旨を告げると、診察前では渡せないとのこと。「事前に見られれば聞きたいことも出てくると思うので…」と申し上げたものの、事務員さんの判断でどうにかなることでもない。手持ち無沙汰のまま大人しく待つと、12時15分頃ついにお声がかかった。
「お待たせしました。血液検査の結果が出てますね。いいですね、落ち着いてますね。どうですか体調は?何か心配なことは…?」
「はい、お陰様で特に悪いところもなく、普通に生活できています。雪かきなども…。便が固気味で…」と先日H病院でのやり取りを概略お伝えする。それから
「1月31日に骨シンチと上半身のCTをやったのですが、その結果はどうですか?」
「あっそうね、画像診断ね………特に心配になるようなものは映っていませんね。リンパ節まで行っているんだものね、順調に推移してますね。この次はまた3ヵ月後に予約を入れておきますね。はい、お大事に。」
 それからいつものように化学療法室で3ヶ月分のリュープリンを腹部に摂取してもらい定期診療は終了。会計を済ませ、4日以内に薬局で90日分の薬を手に入れれば、現在の治療体制は3ヶ月継続する。
 血液検査の結果は、ヘマトクリット値、ヘモグロビン量、白血球数が前回同様正常値よりわずかに低かった。赤血球数、血小板数は、辛うじてだが正常域であった。MPVという項目は、前回同様11.0で上限をはみ出していた。GOT、GPTも前回とほぼ同じ数値で正常域に収まっていた。PSAは今回も0.01未満で、治療が功を奏していることを示していた。
 さて、診療以外の余分なレポートしては、採血を待つ間に、二つ前の記事で触れた星野富弘さんの展示コーナーを再び訪れた。というか、吸い寄せられた。心打たれる作品があるからだ。中でも
 「 新しい命一式ありがとうごさいます
   大切に使わせて頂いておりますが
   大切なあまり仕舞いこんでしまうこともあり
   申し訳なく思っております
   …      」 というのがある。終わりまで全部紹介したいところだが、許可を頂いていないので、踏み止まるしかないだろう。生き物として気っ風のよい作品で大好きだ。病院にこういうコーナーがあるということは素晴らしいことだ。それから、前回来たときに気付いたことだが、「薄暗い」と何度か書いた外来待合室にLED(たぶん)のスポットライトが追加され、幾分明るくなっていた。

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   星野富弘さんの作品展示コーナーにて
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3ヶ月ぶりのH病院②と前代未聞の大雪 [生活エッセイ]

 もう一週間以上もたってしまったが、先々週の金曜日に、定期診療でH病院に行ってきた。放射線治療で入院した一年前を彷彿とさせる雪の舞う日だった。
 あの時は、車内の英語放送のアクセントに耳を傾け、その興味で目的の駅に着いてしまったが、どうやら、治療入院がどんなものか見当もつかず、何も考えようがなかったからそこに関心が行ったのだろう。今聞くと、特別関心を寄せるほどの特徴は、ほとんどまったくないように思える。車窓は津軽平野のような灰色の世界で、小雪が横に舞い飛んでいる。
 目的のI駅に着くと、昨年と違い荷物がないので徒歩でとぼとぼと病院に向かった。道はうっすら雪を被った程度で、レインシューズで歩くのにそれほどの支障はなかった。交番を過ぎ、病院の建物が見えるところに来ると、大きな犬をたくさん飼っている家があることを思い出した。今日は黒いシェパードが柵のそばをうろうろしながら通行人を威嚇していた。
 例によって豪華な待合室で小水についてのスコア票を記入した。前回は好調で4点だったが、今回は、昼間の小水が近いことがあって、7点であった。
 待つこと15分、お呼びがかかってO先生の許へ。
「どうですか体調は?何か変わったことはありませんか?」
「お陰様で普通に生活できています。ただ、このところ便が固めで、ときどき紙に血が滲んでいます。また痔の薬をいただければありがたいのですが。二晩も続ければたいてい治っちゃいます。」
「便が固いのはよくありませんね。一度大量に出血すると一生止まりませんよ。便をする度に大量に出血するのは辛いでしょう?痔の薬はよく効くけれども、度々使うと、粘膜を弱くしてしまうから、あまり使わないほうがいいんです。便を緩くする薬を出しますから、必ずそれを呑むようにしてください。消化管の粘膜を保護する働きと、便に水分を保つ働きを持っているだけの薬だから、呑まないで固い便をするより余程呑んだほうがいいですよ。大量の出血をするようになるのは厭でしょう?」
「はい、はい、はい。薬を呑みます。私は暢気者だから、先生にしっかり指導していただくとたいへん助かります。ありがとうございます。それから、骨盤の大腿骨の付け根の辺りがときどき痛いことがあるのですが、転移している可能性がありますか?」
「どれどれ、診ましょう、どこですか?」立ち上がってズボンを下げて左脚の付け根の外側を触って、「この辺りなんですが…」
「ううん、加齢によっても痛みは出るからね。骨シンチをやっているんだよね?」
「はい、まだ結果は聞いていませんが、先日やりました。」
「ではそちらの結果を大学病院のほうでよく聞いてください。」
 かくして、薬をもらい、三ヵ月後の次回の予約をし、千円足らずのお金を支払い、帰路に着いた。
 帰りも雪の影響はまだ少なく、ほぼ順調に家に戻った。
 この雪が実害をもたらすほど大量に降るとは、このときはまだ夢にも思っていなかった。熊谷地方は、2月の6日、7日に四十何年ぶりとかの大雪で43㎝の積雪があった。千葉や茨城の友人が心配して電話を掛けてきたくらい関東でも突出して降り積もった。それでもほとんど被害は出なかった。ところが、この日の雪は、夕方から雨に変わるかの予報が外れ、ずんずんずんずん降り積もった。宵の口に一度降ろせる範囲の雪を降ろしたカーポートだったが、深夜にはまたまた30cmも雪を冠していた。息子に「カーポートが怪しいぞ」と言うと、「じゃあ、どかしてくるか」と湯上りだったが服を着直して四駆の愛車をなんとか近所のタイムズに入れてきた。
 その後雪降ろしをすればよかったのだが、車がどいたことで一安心、風呂に入って寝てしまった。
 翌朝起きて…さあ、大変だ。まず、6時頃だったか、ドサッ、バキッと大きな音と振動があった。まだ雪が降りしきる中、出てみるとカーポートが崩落していた。隣に置いてある車のボンネットに一部もたれかかっている。
 この様を見たときは、正直、元気を失った。静かに音もなく忍び寄る雪の恐怖を始めて知った。
 熊谷気象台始まって以来の積雪62cm。あれから一週間以上、毎日雪かきをしているが、雪はまだまだとても片付かない。雪国の人々の苦労が偲ばれる思いがけない体験となった。

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孫守りをしながらわかったこと-略画と密画の重ね描き- [生活エッセイ]

 【     】の部分は読み飛ばしてください。(2014.4.29加筆)

 孫を授かって孫の感想を書いたところで、喜んで見てくれる人はそうはいないだろうから、触れないで済ませようとも思うのだが、一生に一度の機会かも知れないので、ちょっとだけ書かせていただこう。
【それも自分の言葉を連ねると、ベタベタと締りがなくなる恐れがあるので、日本列島の先人のお言葉を拝借することにしたい。
 思い当たるのは、まず山上憶良さん。子を思う歌をいくつも『万葉集』に遺していて有名だ。例えば、
「子等を思ふ歌一首、また序
  瓜食(は)めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ
  いづくより 来りしものぞ 眼交(まなかひ)に もとなかかりて
  安眠(やすい)し寝(な)さぬ
 反歌
  銀(しろかね)も金(くがね)も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも 」
 また、清少納言さんも、
「 うつくしき(可愛らしい)もの。瓜にかぎたるちごの顔。すずめの子の、ねず鳴きするに踊り来る。二つ三つばかりなるちごの、急ぎてはひくる道に、いと小さきちりのありけるを目ざとに見つけて、いとをかしげなる指にとらへて、大人などに見せたる。いとうつくし。頭は尼そぎなるちごの、目に髪のおほえるをかきはやらで、うちかたぶきてものなど見たるも、うつくし。
大きにはあらぬ殿上童の、装束きたてられてありくもうつくし。をかしげなるちごの、あからさまにいだきて遊ばしうつくしむほどに、かいつきて寝たる、いとらうたし。」 と『枕草子』に記している。これも有名だ。】
 幼き子が宝物だとか、「かいつきて寝たる、いとらうたし」などの気持ちがよく《わかる》。
 赤ちゃんはなぜ可愛いのか、というより、大人の側が、愛しんで育てるよう可愛く感じるようにできているのだろうが、その理由の一つに、つぶらな瞳もさることながら、《匂い》があるのではないかと思う。基はおっぱい(ミルク)の匂いなのだろうが、胸元に近付くとホワンと赤ちゃんの香りがしてくる。これを「かーわいい、いい匂いがするなあ」と家族に話したところ、たちどころに変態扱いされ、「以後匂いを嗅いではならない」と禁止命令を喰らってしまった。わざわざ嗅がなくても、抱いて寝かしつけていれば自然と漂ってくるので「ハイハイ、承知しました」と言ってはおいた。
 つい自分の感性が漏れてしまったが、体験して同じ境地に達すると「わかる」という言葉が出てくる。最近、友人からいただいて子守りの合い間に読んでいる本(岩波新書『科学者が人間であること』中村桂子著)に、科学で得られた知識については「知る」ことではなく「わかる」ことが大事だと度々出てくる。科学は専門分化するが故に新しい発見があり、微細な事実や法則がわかってくるが、これらを「知ろう」とすることより、日常生活から得られる体験と照らし合わせて「わかる」ことが大事だと説いている。著者は生命科学の専門家でJT生命誌研究館館長。特別な知識によらず想い描く世界観を《略画的…》、科学的知識がもたらす世界観を《密画的…》と名付けた哲学者大森荘蔵氏の説を紹介し、その重ね合わせが大事だと解説する。
 科学が、人類に進歩や繁栄をもたらしていることに確たる自信が持てていた時代から、必ずしもそうとは言い切れなくなった現代、科学者の側から提起された「科学と科学者のありよう」、またその成果の受け止め方についての大変示唆にとんだ提言と受け止めた。科学が行き詰っているように見える今、科学至上主義から非科学の世界観・宗教観に舞い戻るのではなく、自然に育まれた人間本来の感性が描く略画的世界観と、科学が導き出す密画的世界観の重ね合わせが重要であり、それが重なると「わかる」という感覚が生まれる。科学者にとっても、また常人にとっても、それが大事だというのである。
 大いに納得の行く話で「わかる」という感覚の大切さが、今はよく「わかる」。もっとも私の場合は、自分の略画と先人の略画が重なった例だが…。

 ところで、今日は「半年に一度は…」というCTと骨シンチの検査日で、G大学病院に来ている。今は、ベックス・コーヒーショップの入った休憩室で、午後の検査を待っているところだ(が、残念、今は昼飯もコーヒーもダメだ!)。ここには、星野富弘さんの展示コーナーがあり、作品が十数枚架かっている。先程「ちょっと」と思って覘いてみると、どの作品にも、自然や命への驚き・感謝が満ち溢れ、立ち去りがたくなってしまった。この方は、偉大な科学者にも匹敵する、偉大な略画家だなあと感動した次第だ。

 さて、「(よく)わかる」話を書いてきたが、よくわからないことがある。都知事選を控えた都民の気持ちだが、この件は明日以降。政治ネタなので「日本の政治と地球の未来」のほうに、できたら載せます。今日は尻切れトンボで失礼!


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3ヶ月ぶりのG大病院 [病気及び治療経過]

 3ヶ月ぶり、正確には13週ぶりのG大病院の診察日が先週の水曜日にあった。いつものように待ち人多数の2階採血室で30分ほど待って、まず採血を済ませる。それから、3階天井まで吹き抜けの外来棟の3階隅の泌尿器科前の廊下に向かうと、少し暗いところに長椅子の空きがなかなか見つからないほど沢山の人が待っている。これもいつもの光景だ。先日のH病院とは好対照だ。
 しかし待つこと2~30分でお声がかかる。「診察室1番にどうぞ」
「どうですか、具合は?」
「お陰様で、日常生活が、普通に、変わりなくできています。」
「それは結構ですね。でも、サイ○△□×*…」
 先生、パソコンの画面を見ながらおっしゃるものだからよく聞き取れない。
「はあ?なんですか?」と耳を傾けると、
「再発している人が多いんですよ。だからまたCTと骨シンチの検査をしましょう。半年たつので。」
「血液検査の結果は出たのですか?」
「出ましたよ、0.02です。」
「もう少し先に延ばしたらまずいですか?」
「いや、やっておいたほうがいいでしょう。1月31日にやりましょう。」
「はあ。」
「看護師さんから検査の説明があるから聞いていってください。次の診察は2月28日ね。」
 待ち時間が短いのはありがたかったが、自分の時間も短かった。短い中で、しかしまた全身にX線を当てる検査を言い渡されたことが少しショックだった。「再発している人が多い」という言葉も、ズシンと腹にきた。もっとも、そうでも言わないと検査を受ける気にならない訳だから、これも仕方がない会話なのかも知れないが、それにしても「再発していないことを確認するために」とか、他の言い方を選んでもらいたいものである。マイナス情報でも、たいていのことは軽く受け流して我れ関せずで呑気にしているのだが、ドクターに「あなたのガンは悪性度が高い」とか「質(たち)が悪い」とか「再発している人が多い」とか言われると、それが事実で、そういう自覚を持つ必要があることはわかるのだが、そのことが知らず自己暗示になりかねないので、この対策が大変だ。人間というのはそういうものだ。
 知らぬが仏という諺があるではないか。医者に言わせれば「知らないでいると早く仏様になっちゃうから、なるべく遅くなるように知らせてやるんだ」というおつもりなのかも知れないが、知ることが誘導することにならないよう、ご配慮を願いたい。
 この後しばらく待って、例の一日がかりの検査の説明を聞いて、採血室の隣の化学療法室で腹部に90日もつ薬を注射してもらい、朝の血液検査の結果のプリントをそこで出してもらって診療は終了した。(治療代は2万7千円弱、院外の薬局でほぼ同額の薬代(90日分)がかかる。これは病気が発覚した人のご参考のために書いている。だからどうなんだと問われれば、懐が痛むということと、これが3割で7割は世間様に迷惑をかけているわけだから(自分で納めた部分も当然あるが)、不本意ながら金のかかる人間になってしまったなあ、精々、外で(例えばブログで)活躍して世間様に還元しなければなあと…思う次第だ。)
 血液検査の結果は、ヘマトクリット値、ヘモグロビン量、赤血球数、白血球数、血小板数が正常値より低かったのだが、まだ低いながらも正常域にかなり近付いていた。白血球数は、4.2で、正常域に入っていた。MPVという項目が時々上限を出るのだが、今回は11.0という数値で、上限をはみ出していた。(これが何を表すのか、研究不足で実はまだ知らない。)GOT、GPTという肝機能に関する数値も正常域で、しかも前回より下がっていた。PSAは、先生は0.02とおっしゃっていたが、それは前回で、今回は0.01未満となっていた。
 後は悪いイメージを払拭しさえすればよいのだ!これは私の得意分野だ(と自己暗示をかける)。
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3ヶ月ぶりのH病院 [病気及び治療経過]

 3ヶ月ぶり、正確には12週ぶりのH病院の診察日である。数キロしか離れていないG大病院は駅から遠いので、車でせかせかと行かざるを得ないのだが、こちらの病院は、徒歩で10分程度なので、本でも読みながらゆったりと電車でいつも行っている。駅を出ると抜けるような青空だ。澄んだ空を見上げているとなんとなく幸福感が湧いてくる。雪国の人の冬の辛さも偲ばれるが、それはそれで、雪の風情が何かをもたらしてくれるのだろうと、他所の苦労はあまり深くは考えない。歩きながら、ちょっといかめしい、しかし真剣に副作用の有無を心配してくれるO先生の顔を思い浮かべる。ふかふかの白い応接セットが楽しみでもある。
 そういえば、昨日も青空の下を歩いた。神奈川の植物園を2、30分で急いで巡ってきた。娘の所に手伝いに来たおまけの散策だ。澄んだ空は今日と同じ。風もあるのかないのか、自分が止まってみないとわからない程度の微けさ、それも今日と同じだ。菊の展覧会をやっていた。丹精こめた様々な種類の菊が行儀よく並んでいた。こんなに手間隙かけて、自然界の植物で芸術作品を創ってしまう人々がたくさんいる国は、おそらく日本ぐらいしかないだろうと、同邦の隣人を敬意を以て改めて見直す思いだ。

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 静かな秋の日はいつも幸福感をもたらすかと言えばそんなことはない。穏やか過ぎて寂しくなる。若い人にとっては恋人を思う季節かも知れないが、私の齢では、ましてや連日片付け作業をしていて、亡き親や姉の遺品などを整理していると、帰らぬ日々が懐かしく思い出され、この世にいないことを今さらながら悔やんだりする。期待に副えなかった自分の一面を申し訳なく思ったりもする。秋は寂しい季節だ。
 それでも日の下を歩くと、そして澄んだ空を見上げると気持ちが一変する。(そう言えばお袋の歌集のタイトルは「空」だった。)まばゆい日差しの下に整列した菊とそれを愛でる人の群れ、黄色く色付いたイチョウの木、その上に果てしなく広がる青い空、時折聞かれる鳥の鋭い声…そんな中を歩いていると、平和だなあ、幸せだなあ、という思いが自然と湧いてくる。しばらく味わっていると、ふと「積極的平和主義」という政治家の言葉が、急に不協和音となって耳に響いてきた。
 平和に積極的も消極的もあるまいよ。彼の人は何を言っているのか。平和も幸せもわかっちゃいないんじゃないかなあと、政治の現実が急に影を投げかけてきた。これは詭弁だなあ、まやかしの言葉だなあと、秋の日の下で確信した。この頃「今年の流行語大賞」などという話題がもてはやされているが、「今年の詭弁大賞」というのを創設したらどうだろう、一位は「積極的平和主義」、二位は「完全にブロック」、三位は…などとちょっと考えてしまった。
 昨日はそんなことがあったなどと思い出しているうちに病院に着いた。珍しく2、30分待たされたが、座り心地を楽しんで、備え付けの雑誌を読んでいたのでくたびれることはなかった。さて先生の前では、「特に困っていること、心配なことはございません。便が固くなったときに少し出血することがあるので、その薬を10日分もいただければ、安心していられます。」と希望を述べ、患部への挿し薬と便通用の飲み薬をいただいて、診察費と薬代650円也をお支払いして帰路に着いた。次回は2月の半ばだ。
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もしかして日本国もガン患者?

 昨年来、ガンの脅威にさらされ、自分の身を案じなければいけない状況だが、最近はどうも社会の健康度のほうが気になってならない。
 憲法解釈を変えて、集団自衛権を行使しようとしている。集団自衛と言っても、日米同盟のことで、アメリカと共同の軍事行動を取るという事である。戦争を禁じている日本国憲法は完全にどこかへ行ってしまっている。
 「特定秘密保護法」を閣議決定し、国会通過を図っている。国の運営を預かる政府機関に、ある程度の秘密があることは止むを得ないことであり、たいてい誰でもそのくらいのことは承知している。しかるべき立場にある人がしっかり秘密を守ればよいだけのことではないか。
 人には知る権利、あるいは知りたがる自然の欲求がある。知ればそれぞれに受け止め、人によってはこれを他人に知らせたくもなる。報道関係者はこれが仕事だ。また、深い思考の末、思想を練り、その産物を表現する精神活動も人に固有のものだ。これらが国家から束縛を受けたら、その時点で抑圧国家である。
 ましてや日本は、民主主義・国民主権の国である。国民が多くのことを知らされず、その精神活動も束縛されてしまったら、そんな国民に投票用紙を配って国会議員に当選しても何の意味もあるまい。民主主義の国、国民主権の国は、もう死んでいる。
 日本の中枢付近にいた人が「日本中枢の崩壊」という本を書き、もっともらしいので、これは困ったものだなあと思っていたが、これは、崩壊ではなく、もっと質(たち)の悪い、「日本中枢のガン化(日本国脳腫瘍)」ではないかと思いを巡らしてしまう。
 異物ができて肥大化し、正常細胞を攻撃していく。ガン細胞の組織を守る盾になるのが「特定秘密保護法」で、その辺りに関心を寄せる人間は、異常細胞とみなされ、攻撃を受ける。攻撃されないようにするには、ガン細胞の言を鵜呑みにし、ガン細胞に政治を一任していく。つまりガン細胞に同化していく。こうして国中がガン化すれば国内の秩序は安定し、国民が一致結束して、一見健康そうな社会に見えるが、だがそうはいかない。半分死んだ細胞が集まっているので、叡智が働かない。
 一握りの中枢ガン細胞の判断で、一億余の国民が揺さぶられる。国民を、平和で幸せな生活に導いてくれればよいが、もともとそれほど国民を尊重してはいない、崩壊しかけた中枢細胞だ。彼らの一元的な価値観で事を決め、多元的・複雑な世界を跋扈しようとする。あちこちに軋轢が生じる。だが引くことをしない。行くところまで行かないと事は終わらない。いつか来た道だ。それでも何の責任も取らない。それはそうだ、初めから国民の尊厳なんか余り感じていない細胞たちなのだから。
 ガン細胞っていうのは、そんな奴なんじゃないかなあ。体の中にできて、体から栄養をもらって、全体のことは考えない。全身に蔓延すると、全身が生きていられなくなって朽ちる。私は無資格の、藪医者にもならない薮素人だから、見立てが違っていればいいのだが、どうもよく似ていて、気になって仕方がない。ガンは早期発見、早期治療が大切なのだ。
 私の場合は、男性ホルモンがガン細胞に活力を与えてしまうらしい。そこで、その産出をブロックしてしまう治療を受け、功を奏している。放射線治療も行なった。
 日本中枢のガン細胞は、産業界からの献金と、官僚の後押しと、国民の支持率(なぜか60%もあるのだそうだ)がエネルギーになっているようである。エネルギーの元が断てれば活動は急速に弱まるだろうが、そこに働く有効な薬が直ちに見つからないとなると、正常細胞が毅然と頑張るしかない。生体の抵抗力・免疫力だ。抵抗と言っても決して暴力に訴えるものではない。テロとは一切関わりがない(とはっきり言っておく必要がありそうだ)。多数の正常細胞が、平然と従前の立ち居振る舞いを続けるだけだ。そうして、あちらに、自らの異常に気付いてもらうだけだ。
 これからが、自己免疫力の発揮どころ、そういうことか!
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相変わらず片付け作業の合い間に-病友の健康情報と最近のブックレポート

 威風堂々としていて、男の六十代は最強?と思うきっかけになった福岡の病友から、先日、メールをいただいた。私とほぼ同じ頃、重粒子線で治療をされた方だ。「G大病院から」とタイトルにある。
「ご無沙汰しております。今日は、診察に来てます。
 体調はいかがですか?
 自分はとても順調です。ホルモンの副作用も無くなりました。ジムで筋トレしてます。なので、大分男性的な体に戻ってきましたが、息子のほうは、少し目覚めてきたかな!?ぐらいで、まだまだ元に戻るまで時間が掛かりそうです。」
 私のお返事は、
「メールありがとうございます。お元気そうで何よりです。
 私も、昼の生活は十分普通にできております。
 息子?となると、ホルモン療法継続中なので、お目覚めの見込み無しです、今のところは。…」とちょっと低調だ。私のほうが、がん細胞の質が悪いのだそうだから、これはやむを得まい。
 さて昼の生活が十分普通にできていることについて、私なりに心がけていることがある。同病の方のご参考になるように、簡単に触れておきたい。
 お酒は飲んでいない。辛いものなど刺激物も控えている。タバコは学生時代に何度か吹かしたことがある程度で、そもそも覚えていない。自転車には、8月来、乗っていない。その前は、治療後は立ち乗りを少ししていた。食事は色々なものを食べるようにしている。中でも、乳酸菌、納豆菌、魚介類、大豆食品、野菜類を多めに摂るように心がけている。
 薬は、G大泌尿器科の先生の指示に従い、リュープリンの腹部注射(前回から3ヶ月タイプになった)と、カソデックスを毎朝一錠呑んでいる。その他には、血圧降下剤(オルメテック20とカルブロック8)を、市内のT病院の循環器の先生の指示に従い、毎朝一錠ずつ呑んでいる。その他に自主的に呑んでいるサプリメントがある。DHCのマルチビタミンというやつを一錠と、サントリーのグルコサミンを二錠だ。ビタミン剤は、粘膜強化のためにBを中心としたものを摂っておいた方が良いのではないかと、グルコサミンは、同じ姿勢をとっていた後の動き出しがどうもギクシャクするので呑み始めておいたほうが良いのではないかと思って、この夏から摂り始めた次第だ。一日6錠が目安というところを2錠ぐらいでいいだろうとケチケチ呑んでいる。
 以上が我々の健康情報だ。

 お陰様でこうして健康を維持しながら片付け事に勤しんでいるのだが、合い間に本も少しは読む。そんな貧弱な読書生活だから披露するまでもないのだが、最近、びっくりするような素晴らしい本に立て続けに出合っているので、釈迦に説法と思いつつ、いくつかご紹介する。
 まずは、以前の記事でちょっと触れたものだが、『エコノミック・ヒットマン』という本。ジョン・パーキンス著、古草秀子訳、2007年12月東洋経済新報社発行。アメリカ民間企業の経営コンサルタントが発展途上国を舞台に暗躍した話を暴露している。ノンフィクションとのことなので、ここ3、40年の世界史の裏の動きを理解する上で大変興味深い資料である。私はまだ読んでいないのだが、「さらにアメリカに興味があるようなら、堤未果『(株)貧困大国アメリカ』(岩波新書)がお手軽。この著者による『貧困大国アメリカ』シリーズの3冊目・完結編」との図書推薦も、アメリカに詳しい知人からいただいている。
 次は、前の記事でご紹介した『あの戦争は何だったのか』(新潮新書保阪正康著)。サブタイトルが「大人のための歴史教科書」。あの戦争が、いかに一部の人間の限られた知見と判断に基づいて行なわれ、いかに先の見通しのないまま、大きな犠牲を払って行われたかがわかる、悲劇の歴史教科書だ。大人はもとより、中・高生にも読んでおいてもらいたい新書版一冊。
 三番目は『原発ホワイトアウト』2013年9.11講談社発行。若杉冽という人が書いている。「現在霞ヶ関の省庁に勤務」と巻末にある。「歴史は繰り返す、一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」の一文に始まり、同じ一文で終わる無気味な書だ。霞ヶ関に勤務する人ならではのリアリティーが随所に覗くドキュメンタリータッチのフィクションだ。フィクションにすると訴える力が減殺されるものだが、この作品は違う。
 多くを語ると読書の楽しみを奪ってしまう恐れがあるので慎むことにしよう。政治の中枢にあって、旧態依然とした状況に居たたまれない思いの若手官僚もいたのかと、一筋の光明を見出した思いだ。若手官僚(たぶん)の趣向を凝らした渾身の一作と言えよう。そういえば、古賀茂明さんの『日本中枢の崩壊』というまじめな一作もあった。
 大きなことがあって、しっかり反省できないと、危機感を抱く人が出てくるものだ。


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片付け作業の合い間に-「あの戦争」と活花帳 [生活エッセイ]

治療の合い間から片付けの合い間に
 放射線治療が終わって6ヶ月余りが過ぎた。ここしばらくは家の片付け作業が続いている。放射線治療のときは、入院していて、1日30分の治療と一時間程度の散歩意外はやることもなく暇だった。その間に本を読んだり感想を書いたり、病友や看護師さんとだべったりして、人の間のぬくもりを楽しませてもらったりもした。今は、お陰様で、時折、痔が気になる程度で、他には特に変わったところもなく過ごせているものだから、家の片付けが生活テーマとなっている。片付け仕事というのは、入院生活とはおよそ正反対で、持て余す暇がまったくない。「暇さえあればやる」ことなのだ。ブログを書いている暇もなかった。
 さて、その片付けだが、棟続きの親の家の8畳間は、空にして、見事、壁と柱と床を取っ払って車の通路にしたことは既にお話しした。その8畳につながる部屋が2つあり、そこも、長らく、弟の物置になっていた。棚の重みで畳は歪み、雨漏りで天井もシミだらけになっている。そこで、その2部屋を片付けて、フローリングにしようというリフォーム計画を立てた。こんな私的なことは、まったく書かずに済ませたいところだが、何をそんなに片付けることがあるのかと不思議に思う方もおられると思うので、仕方なし、概略ご説明申し上げた。
 元々の部屋の住人は両親だが、母親が亡くなってから16年、父親が亡くなってから7年たつ。だがその後、多数の電気製品を所有し、それらでビデオテープ、CD、DVD等を日々産出し、雑誌をあまた定期購読する弟が棲みついたものだから、親の遺品整理が、ほとんどできていなかった。
 弟の所持品は膨大で、入退院を繰り返すようになった昨年の秋から、大量の片付け作業をやってきた。それがいよいよ大詰めに近付き、最後の1部屋となった。だが、そこに残ったものは処分に迷うものばかりで、2日3日取り組んでも、これがなかなかはかどらない。
 親のアルバムや日記、住所録、手紙、業績を讃える感謝状等々。古い本も、貴重に思える写真集はあるし、ケースに入った上製本もたくさんある。片付けというのは、ただ捨てる作業は単純な肉体労働だが、分別判断を伴うと、なかなかの精神労働だ。日限が迫っているとみな捨てることになるし、判断を丁寧にやろうとすると、片付け作業が進まない、終わらない。今回は、リフォームの日程が決まっているので、それに合わせてやるしかない。なるべく丁寧にやりたいが、職人さんが作業に取り掛かるときには空にするしかない。

片付けの合い間に「あの戦争」が気になる
 そんな片付け作業を、昼間は暇さえあればやりながら、しかし朝晩は(朝方早く目覚めてしまったときとか、晩方寝つくまでの間とか)気になって読んでいる本があった。『あの戦争は何だったのか』(新潮新書保阪正康著)。まだ書店に並べられそうな本を買い取ってもらいに行ったブックオフで見つけた本だ。あの戦争は、国家の間違った選択で、二度とあのような不幸を、国民や周辺諸国民にもたらすような社会運営をしてはならないという戒めだと、私自身は認識しているのだが、しかしどうも世の風潮は、必ずしもそういう認識で統一されているわけではなさそうだと最近は感じている。そこで、この本はどう捉えているのか、咄嗟に興味が湧き上がり、ありがたくも105円で持ち帰ってきたのだ。
 さて、どういう立場で一家言なしているのだろう、この本は?と思いきや、早速「はじめに」で次のメッセージを発している。
《歴史的検証が充分なされていないのは、一つには、平和教育という歴史観が長らく支配し、反戦・平和・自由・民主主義…といった美辞麗句をちりばめ、史実の理解もなく、臭いものには蓋をして、一元的に語ってきたからである。またもう一つには、この反動として、「新しい歴史教科書を作る会」のような人たちが「大東亜戦争を自虐的にとらえるべきじゃない」などと、これも感情論で歴史を見るからである。》(筆者の要約)
 両者を排して戦争の内実に迫ろうとしている。これは頼もしい。是非ともこの本で勉強させてもらおう!と読み始めた次第だ。
 第一章は「旧日本軍のメカニズム」職業軍人へつながる教育制度、一般兵を募る徴兵制の仕組み、帝国陸海軍の機構図が書かれている。
 子どもたちに「大人になったら何になる?と質問すると、「陸軍大将」「海軍大将」という答がたくさん返ってきた時代である。どのような養成機関があり、そこで何が教えられていたかは、当時の社会を理解する上では是非とも知っておかなければならないことである。軍国主義と言われた時代の軍人はどのような教育を受けて育っていったのか、第一章はそれを解説する。
 第二章は「開戦に至るまでのターニングポイント」を探る。そして暴力が社会を支配する風潮を決定付けた出来事として2・2・6事件を挙げる。そして日本は「坂を転げ落ちるように、真珠湾に至る」
 第三章は「快進撃から泥沼へ」「無謀とわかっていながら、しかし誰も『ノー』とは言えず、曖昧なまま始まってしまった太平洋戦争―。この章では、真珠湾攻撃から半年にわたる“快進撃”、そして初の決定的敗戦となった『ミッドウェー海戦』と『ガダルカナル攻防戦』、その後の“泥沼”に至る転換点となるところまで」を説き起こしている。ミッドウェー海戦は昭和17年6月5日、奇襲のつもりが完全に読まれていて返り討ちに遭ってしまうが、海軍軍令部は、この敗北をひた隠しにする。以降ガダルカナルをはじめ、各地の戦場で日本軍は苦戦を強いられ、多数の兵士が命を落としていく。

片付けが「あの戦争」とつながる
 そんなことを本で学び、悲惨な戦場の様子を想いうかべ、日本人のどこがそういう社会を作ってしまうのだろうなどと、頭の片隅で思いながら、昼間の片付け仕事をしていたところ、お袋の遺品の中から一冊の小さいNoteBookが出てきた。ワニの鱗を細かくしたような柄の、赤黒いしっかりした表紙がついている。古くて、中の紙は全体がカーキ色に変色している。表紙をめくると「活花帳」と自分で書いている。その脇には「一切のものに対して愛と謙遜を忘れない時、女の叡智はかゞやくであらう」と縦書きで記している。ぺらぺらめくると、余り上手とは言えない活花の素描と、活けた花の名や活け方、材料代、心得などのメモ書きが、罫線に沿って横書きで記してある。昔のことだから、結婚前に花嫁修業として活花教室に通っていたのであろう。
 所々に日付が入っている。まずは昭和16年8月9日とある。まだ日米戦争開戦前だ。かさかさ乾いて破れそうなページを5枚ほどめくると、昭和17年度とある。オー、始まってしまったなあと思いながらまたページをめくると、2月24日のページに、いつもの横書きのメモと違った縦書きの数行が目に入ってくる。読んでみると、
 チラチラ粉雪の降る晩
 家も樹も皆真白だった
 私の紅いあしだが埋れて…
  こんな祖国の風景を
   南の兵隊さんに
    お目にかけたいと思った   とある。
 このときお袋(に、いずれなる人)は誕生日を迎えたばかりの21歳。国を挙げての戦争の影が、こんなところ(戸棚の箱の中)に潜んでいたのだ。勝ち目も終戦の目算もないまま始めた戦争!杜撰な情報管理、作戦決行でどんどん窮地に追い込まれていく戦場!そうとは知らない一般大衆は、召集令状が来れば勇んで出征し、残った者はそんな兵隊さんを心底思い遣る…
 片付け作業は、大半は消耗的だが、こんな発見もたまにはあるものなのだ!差し迫った片付けはとりあえず一区切りついたが、まだまだやらなければならないことは山のようにある。効率よくせっせとやらなければいけないが、埋蔵品の発掘も疎かにはしたくない。となると、嗅覚というか、第六感が大事ということか!

P1000508 活花帳とあの戦争.JPG


現代不要品処理事情の続き+カー修理事情 [生活エッセイ]

 たかが一個人の経験を「現代~事情」などと大袈裟なタイトルをつけ、お騒がせして申し訳ありません。ゴミ捨て事情をもう少し。
 今週の火曜日、もう4、5日前のことだが、例の私にボランティアしてくれる軽トラの友人が、またやってきてくれた。その日は、高く伸びたシュロの木の枝というか、葉と実を落としに、植木屋さんよろしく高い脚立を持参して。
 家にも、閉じると2mぐらいの長さで、足を広げて立てると、1.8メートルぐらいの高さになる普通の脚立はある。その脚立のてっぺん近くまで登って、植木鋏の届く範囲の葉は、前回、一年ほど前に、まだ、放射線治療をしていない頃、つまり、股に自信があった頃、いや不安がなかった頃、私が自分で刈り落としたのだった。その後、またどんどん葉や実をつけながら上に伸びたために、もう切り倒すしかないと思っていたのだ。
「まだ切らなくてもいいだろう、オレが散髪をしてやるよ」とやってきてくれた。彼の持参の脚立は、脚立というより正に三脚、3本脚で3m以上はそそり立つ。つまり裏側が、支えの支柱1本なのだ。ちょっとよれると倒れてしまいそうで心もとないが、その分、表側のはしごの部分の下が広がっていて、わりと大きな三角形の広がりを大地に突き立てるのだ。シュロが我が家の三角形の土地の先端の、隣地との境界近くに生えているので、隣のビルの外階段に、裏の支柱を立てさせてもらわなければならない。階段を使わせてもらうことは了解を得ていたが、階段に脚立の脚を置くなど普通の脚立ではとても無理な話である。ところが、一本足ならそれも可能なのだっだ。
 高いところに登って、彼はバサバサ切り落とす。足場の安全確保のために側で見守っている私の頭上にドサドサ降ってくる。
「オーイ、サルカニ合戦じゃないんだからさあ…」
「んー?」聞こえていないのか、聞こえない振りをして楽しんでいるのか、容赦なく枝を切り落としてくる。30分もすると、シュロはすっきり、大層スマートになった。こうしておけば、多少大風が吹いても、倒れて通行人に迷惑をかけるようなことはあるまい。
 刈ったシュロの葉っぱと珊瑚のようないかつい実の枝を軽トラに積み込んだ。3抱えぐらいはあったろうか。

P1000480ds.JPG

 さて、軽トラ仕事は実はもう一つあるのだ。畳を捨てに行くことだ。
 日本の住まいは、かつては和室が当たり前で、一間か二間、洋間を作ったものだった。畳の当たりの柔らかさ、温かさは木の床に勝るものと思っていた。いや、いる。特にこどもがよちよち、はいはいしているときには床は畳みのほうがいいだろうと思う。ところが、どうしたわけか、今はフローリングが当たり前と心得ているようだ。我が家も古くて歪んだ畳をフローリングにしろと、みなが意気盛んだ。かくして、不要な畳が何枚も出る。そのうちの4枚半が既にめくれる状態になっていた。
 業者も引き取ってくれるのだが、1枚 1,800円とのことだ。これを市の焼却場に市民が持っていくと、1日10枚までとか言っていたが、10キロ150円で処分してくれるのだ。先日八畳間を壊したときにも、業者の勧めで捨てに行ってきたので、勝手は知っている。。
 シュロの枝葉の上に、重い畳を積み込んで、7~8キロ離れた焼却場に持ち込んだ。指示に従い車を走らせ、まずは畳を焼却炉に投げ込んだ。管理棟前に戻ると、計量の結果、120キロ1,800円とのこと。お金を払ってそこを通過し、Uターンして再び同じことをすると、シュロ(一般ごみ)のほうは、20キロで無料とのこと。一般ゴミは、50キロまでは無料で、それを超える分が10キロ10円とのこと。大変安くゴミを受け入れてくれている。これは、市の衛生車が無料でごみ収集をしている代わりに搬入してくれるからという配慮があるからと思われる。
 有り難き友人のお陰で、ゴミ捨て事情の追加報告ができた。

 ところで、もう一つ報告したいことがある。
 親戚の法事で、車を連ねて移動したときに、ブレーキランプの一つが点かないことが判明した。よく見ると、赤いテールランプの上のほうが少し割れていて、そこから水が入って点かなくなってしまったようだ。いつそうなったのかは不明だが、保安部品だから早く直さなければならない。日産の車なので、早速近くの埼玉日産に相談に行ったところ、3~40分待たされて出た見積もりは「リアコンビネーションランプ、部品 17,745円、技術料 5,387円、計 23,132円だった。もう11年も乗っている車で、宝くじでも当たればすぐにでも燃費のよい車に買い換えなければいけないと思っている車なので、わずかの修理に2万円以上かけてしまうのはもったいないと思って、保留して帰ってきた。
 さてどうしたものかと思って、近所の板金修理屋さんに声をかけてみた。すると、すぐに部品を調べて、
「新品だと1万8千円位しますよ。中古を当たってみましょうか」と言ってくれた。
「はあ、お願いします。」そうだ、これだと思って、すぐに頼んだ。 数日後、部品を持って訪ねてきて、
「部品が6千円で、消費税と工賃で7千円ちょっとになります。よろしければ、今、付けていきますが…」よろしいよろしい、よろしくお願いしますと相成った。
 日産はせめて、選択肢を示して欲しかった。新車で儲けて、修理で儲けて…と考えるより、客の状況に合わせて、資源の節約も考えて、顧客も社会も満足する対応を心掛けることが会社の発展につながるのではないだろうか。


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現代不要品処理事情 [生活エッセイ]

(生活関連の記事は、前立腺治療と関係なくてもここに載せようと思います。)

 台風一過の17日、友人のD君は、竜巻に襲われた市内の江南地区に、ボランティア活動のため出掛けていた。まず、市役所に、ボランティアセンターが立ち上がっていることを確認して出掛けたにもかかわらず、待たされ放しで何も活動できず空振りに終わってしまったそうだ。(詳しくはhttp://blogs.yahoo.co.jp/dob_20010312/68229787.html をご覧あれ)
 友人が殊勝な(しかし残念な)一日を過ごしている間、自然災害のなかった我が家に、別の友人A君がボランティアで訪ねてきてくれた。被災を心配したわけではない。空き時間があったら、軽トラックで来て、我が家の片付けを手伝ってくれないかと頼んであったのだ。
 軽トラックで運び出したいものは、壊れた洗濯機2台とプリンター等だった。洗濯機の1台は2階のベランダで使っていたもので、そのままベランダにあった。大型でかなり重かった。30キロくらいはあった。そこで、これにロープをかけて持ち易くして、不用品が置かれて狭くなっていて、途中で曲がっている階段を、2人でよろよろしながら、ちょっと足許を踏み外したりしたら大変なことになりそうな不安を克服して、やっとの思いで外に運び出した。トラックの荷台に載せるのなどは、もう、楽なものだった。もう1台は、既に庭に出してあって、重さも20キロぐらいで、なんのスリルもなく積んでしまった。
 汗かき仕事はもうないだろうと着替えをし、しゃぶしゃぶの食べ放題で栄養を補充し、デザートのソフトクリームを舐め、コーヒーで昼食を締めくくった。
 それから再び軽トラに戻り、残りの品を2つ、3つ積み込んで、スマ**コーポレーションという廃品引取り業者のところに行った。以前行ったときには、順番待ちで2、30分待たされたが、今回は行列はなく、前の人のトラックが出るとすぐに、外人従業員さんから手招きを受けた。積み荷のうち、テレビが200円、友人が積んできた小型の冷蔵庫が、約500円の引き取り料が掛かるがどうするかと尋ねられた。半ば承知していたので、処分を依頼する。すると積荷はガラガラと落とされ、すぐにメモ書きが渡され、事務室で精算と相成った。女性事務員が、洗濯機が200円、他の雑品がキロ13円で39円、計239円、一方引き取り料が6百何がしで、差し引き4百何がしのお金を頂戴しますと説明。もしかしたら昼飯代ぐらい出るかもしれないという淡い期待はあっけなく外れたが、1個数千円も掛かるリサイクル料金を支払うよりはよほどましだろうと、さっさとお金を払い、帰路に着いた。
 帰り道、あんな思いをして積み込んだ重い洗濯機が200円だったかと、計算書をよくよく眺めてみると、単価200円で、数量が1となっている。「おいおい、2台運んだぜえ、それはないよなあ」と意気投合した。で、家に帰ってから電話をかけた。「フェアプレーで行きましょうね、2台あったでしょう?」やや時間をおいて、「間違ってました、200円取りに来てください。」との返事。「後で、ついでのときに寄るから、わかるようにしておいてね」で落ち着いた。危うく、危険を伴う重労働が無になるところであった。200円で報われるわけはないのだが、長年放置されてベランダの一角を占めていた物が取り除かれ、しかも200円になったということは、この日の大きな収穫なのであった。
 持つべきものは友達である。この頃そう感じることが多い(そんなことばかりしている?)。
 さて、軽トラ付きの友達と別れた後、古着を大量に処分しに出掛けた。これは、自分の車のトランクに積んで。亡き父の背広やコートが主である。着られそうなものはなるべくとっておくのだが、小柄だったために、残念ながらみな着られないのだ。それに、開かずの箪笥に数年入っていたため、どうしてもかび臭い。1つ2つ残して、あとは捨てるしかないという結論に達していた。それでも、燃えるゴミとして出すのは忍びないのだ。そこで、安くてガソリン代にもならないという評判ではあったが、とある衣類のリサイクルショップに持って行ってみた。ずっしり重いビニル袋5つの査定結果は、1キロがキロ50円、他の23.5キロがキロ10円という評価で、しめて285円とのこと。店で再販できるものはないが、外国で再利用する資源になるとのこと。安く見積もられて大変残念だが、ただ焼却炉にくべるよりは物が浮かばれるような気がして、腹立たしい気にもならず、置いてきた。
 片付けは進んだが、何か充実感に至らない、可もなく不可もない、現代生活の一面を味わったような一日だった。


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