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花待つ頃の備忘録 ② 我が民族の美質 [読書感想]

 いつもお世話になっている歯医者さんにCという月刊誌が置いてある。私はよくこれを手にする。何かしら新鮮な情報に出合え、いろんな意味で勉強になるからだ。先日も4月号の[巻頭の言葉]にびっくりし、大急ぎで頭にしまおうと思ったのだが、とても入りきれず、ちょっとお借りしてきてしまった。
 びっくりした一節は、その冒頭である。(【 】内はC誌からの引用だが、固有名詞の一部はイニシャルに替えさせていただいた)
【中国、韓国は我われの近くに生きる民族なのに、国際的常識では理解できない動きを次々と繰り返す。我が国は安倍内閣が誕生し、近代国家の為すべきことを次々と手を打ち、経済の明るさも見えてきた。】とある。執筆者はA社の名誉顧問のNという方だ。
 自分や自分の国の行動が正当で、それとぶつかる主張は常識では理解できない動きだとは、ちらと思うことはあっても、なかなか大上段に構えて振り下ろせるものではない。国際問題はそれぞれの国にそれなりの立場があり、そのせめぎ合いをどう裁くか、そこが難しいし上手く解決したいところでもある。それを、事例も示さずあっさりああ言ってしまう。「中・韓は国際的非常識。一方我が国は安倍総理が為すべきことを着々とやっている」この説は、もはや、この人たちの間では常識なのであろう。びっくりした。この次の段落は
【二〇二〇年のオリンピック・パラリンピックも東京に決まり、極めて明るいニュースである。】と続く。そして次の段落は、
【この極東の国ニッポンで東京、札幌冬季、長野冬季と、なんと四回目のオリンピックが開催されることは、国民の誇りであり、国力と言っていいし、民度力と呼んでもいい。それらが勝れているからこそ誘致し得たのだ。】とこれを誇らしく称える。まあそうかも知れないが、もう少し奥ゆかしく構えていてもいいのではないか、とも思う。
 さて、この方はこの先、何が言いたいのか、この人の考え方、人となりに大いに興味を感じたのだった。
 まず、この巻頭言のタイトルは「我が民族が紡ぎ続けてきた美質」だ。続きを読むと、次の段落は
【その時、『**(C誌)』の読者が十万人に達した。M先生の「日本が変わる」地点に到達したのである。しかし、数だけ揃ったら幸せが来るほど、世間は甘くない。我われは動かなければならない。つまり波動を立てねばならない。】この方は信念があり、世に働きかけて世を変えようとされている。次の段落は
【思えば昭和十六年、我が国は英米大国と戦を起こした。大東亜戦争である。そして敗れた。戦争の勝敗の論理は古今東西、常に勝者が正義となり、敗者が悪に回される。占領軍は「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」(日本の戦争罪悪史)を日本中、山の奥まで説き回った。】歴史問題に触れ、負けて悪にされたと括っている。負けた上に悪にされたというのだから、余程悔しい思いをしたに違いない。また今もしているのだろう。さらに、
【日本民族が長い時をかけて磨いてきた美質の多くは《この時》音を立てて崩れていった。その占領軍もサンフランシスコ条約を結んで昭和二十八年引き揚げていった。だが時務学を専らにし、大金を摑んだ日本人の多くは眼を覚まし得なかった。M先生は人間学を注入した読者が十万人になるということは、迷える子羊のアンチテーゼ(反対存在)として頼もしく見えたに違いない。】と続く。「時務」とは「そのときに必要な務め。当世の急務。その時の政務。」と広辞苑にはある。負けて一変した国の在り方に適応していった同朋がそう見えたのであろう。負ける以前の日本に戻そうとする気風がなかったことを憂え、「読者十万人」に託したのだろう。続く段落では迷える子羊の例を挙げる。
【迷える子羊たちは、我が子が学校給食を受ける時、給食は当然の権利であり、したがって神仏への感謝になど繋がるはずはなく、「いただきます」と言う必要がないとか、払うべき給食費も払わないという。】と戦後の権利意識が源と思しき悪い面を指摘する。一方、
【筆者の家は大家族であったがすべて箱膳であり、父のお膳は「戸主膳」と呼び、一回り大きく、料理が一皿多かった。父の発声で「いただきます」と食事は始まった。ごはん粒一粒たりとも残すと「神様が眼を潰す」とおばあさんが孫にもっともらしく説いていた。田舎の一軒一軒でも、修身斉家治国平天下という教育のテーゼにかなうよう、生き抜いていた。】と(執筆者が思う)古き佳き時代を懐古する。
 そう、戦前の日本は家父長制で、父親を主(あるじ)とする家単位で国家・社会を形成していた。このため、人が育つ家庭と社会には、今より安定感があったと言えるだろう。しかし、女性に参政権はなく、男女平等とか、個人の自由とかの理念は後回しにされていた。
[巻頭の言葉]は続く。
【「和食」が世界遺産に指定され、我が国も観光立国を強調しているので、古来、食べることにもっとも粛然と対してきた寺の食事のあり方を紹介しよう。『**(C誌)』にも登場された臨済宗の大本山E寺の館長・Y老師に教えを乞い、お伝えする。】として五観の偈(ごかんのげ)が紹介される。
【 五観の偈
一には功の多少を計り彼の来処を量る
二には己が徳行の全闕を忖って供に応ず
・・・・・・】と五まで掲げ、その解釈がこれに続く。
【Y館長解釈
一、この食事がどうしてできたか、どのような手間がかかっているか、どうしてここに運ばれてきたかを考え、感謝いたします
二、自分の行いがこの食をいただくに価するものであるかどうか反省していただきます
三、心を正しく保ち、貪りなどの誤った行いを避けるためにいただくことを誓います
四、この食事は良薬であり、身体を養い健康を保つためにいただきます
五、私は自らの道を成し遂げるためにこの食をいただきます
 -いただきます- 】そして「偈の後食」についても同館長の解釈を記している。
【どうかこの功徳をひろく一切の生きとし生ける者皆の為にふり向けて、私たちと人々ともろともに仏道を成就することができますように。ごちそうさまでした。】
 この後「**法人会」の食事の折の挨拶が紹介され、次の文で巻頭の言葉は終わる。
【我が民族が磨き続けてきて、戦後失いかけているこのような民族の美質を復元することこそが我われに課された重大な役割なのです。】
 正確を期すため引用が長くなった点をお許し願いたい。以上が私が興味深く読んだ月刊誌の記事である。後半はごもっともと思えることが多かったが、前半は肯定しがたい記述が多かった。いわゆる大東亜戦争の評価が大分違うのだ。執筆者はおそらく青年期に大戦と敗戦を体験しているのだろう。「苦しい戦争だが列強の世界支配に抗する止むを得ない、国を挙げての戦いだ。なんとしても負ける訳には行かない。我が身を犠牲にしてでも、この戦に勝たなければ…」と、素直に燃えながら戦時を過ごしたのだろう。それが全面降伏という形で終戦を迎えてみると、価値観が一変してしまう。「あの時の正義は、あの時の情熱は、あの時の苦労は何だったのか?何の評価も与えられていないではないか。一時の幻のために、大勢が命を賭して戦っていたというのか…」一途に燃えていた人ほど、価値観の変わり様が受け入れられなかったに違いない。「敗戦による価値観の変化のほうが、一時の誤りで幻だ。残りの人生を賭けてでも、変化の化けの皮をはいでやる」と思う人がいても不思議はない。純粋な人ほど、そう思うだろう。また、気骨のある人ほど、その思いを遂げようとするだろう。
 一方、国の浮沈よりも自分達の生きることのほうが大事な多くの人たちは、戦地で非情な戦いに従事させられたり、居住地が爆撃されたりする極めてリスクの高い政情よりも、少々価値観が変わって戸惑うことはあっても、安全安心な生活ができる政情のほうを好んで受け入れたのである。「何であんな戦争をしてしまったのか…どこから軍国主義に突っ走っていったのか…」と「あの頃が異常だった」と括ることになる。
 戦争を知らない世代はどうかと言えば、戦前の人たちと同様、自分たちの生まれた社会を当然のものと受け取るのである。平和で男女平等を指向し、個人の自由が尊重されるのは当たり前のことなのである。だが、それが当たり前でも、それが理想社会の訳ではない。そこにはそこの欠点があり、矛盾があり、危うさがあり、不満もある。今の社会の良いところは何処で、改革を要するところは何処なのか…誰もが感じ考えることである。そんなとき、育つ環境から受ける影響が大きいのは当然のことである。親たちがどう受け止めているか、学校の先生たちがどう解説しているか、それに大きく左右される。周囲の環境次第で、戦前、戦中の価値観を見直す必要があると考える人や世代が登場してもそれほど不思議ではないだろう。
 しかし、私自身の思いがどうかと言えば、人間は、個人でも社会でも懲りる必要があると思っている。あの間違いはもう二度とするまいと懲りることが大事で、そうしないと、同じ間違いを繰り返してしまい進歩することがない。数々の理不尽な不幸を産んだあの戦争はそれに値するものと私は思っている。仮に、始めたことには理があったとしても、負け方が悪かった。国民をすべて駒のように考えて、あんな状況に至るまで戦を続けた国の政治体制にどんな理があるというのか。ああいう状況に至らないように、日本人は重々気をつけて政治体制を見張っていかなければならないと強く思う。
 懲りるという点では、原発事故もそれに値しよう。地震津波の大災害に加えて、さらに始末の悪い禍が同時に起こってしまったのである。偶発的な事故だから、それに備えれば他は大丈夫だという問題ではない。そもそもが、メルトダウンなどは起こり得ないという安全神話を作って、国の保安院も安心しきっていて起こった事故である。管理・監督者のそうした姿勢に問題があるのだから、もう、懲りて止めたほうがよい。日本には、その科学技術はあったとしても、管理運営していく責任能力が乏しいことが発覚したのである。再び起これば、いよいよ多くの民が安心してこの国に住めなくなってしまう。美しい国は絶対に美しく保たなければなるまい。

 さて、思いのほか自分の主張に力が入ってしまったが、後半は大変善いことが書かれていた。物を食して命を繋ぐとき、他人の労力等を思い、自分の身を反省し…など、五観の偈の解釈は、まったく人として心すべきことと思える。しかも、これが我が民族が紡いできた美質だというのだから、これは大変嬉しい指摘であり、これを復元しようという志にはまったく異論がない。私もこの教えに倣って、常日頃心掛けなければならないと思う。
 有り難いご指導をいただいた点、また記事に触れ、勝手ながら引用させていただくことにより、これに対する私見を述べる機会を得たことについて、雑誌社とN氏に心より感謝申し上げる次第だ。


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第15話後日談 海と山と平野と… [読書感想]

 『日本〈汽水〉紀行』を贈ってくれた知人とは、妻の中学・高校時代の同級生。この方、深谷で農牧業を営む方と結婚し、ご夫妻で、なんと岩手県に新天地を求め、養豚業を始められた。40年も前のことである。それから、子育てに励む傍ら事業を年々拡大され、やがて、有機的な農牧業で安全な食を提供すると共に、広大な自然を味わえる観光牧場「館ヶ森アーク牧場」(http://www.arkfarm.co.jp/)を開設された。21年前のことである。
 それから数年後、一大構想をもって事業を推進してこられたご主人が病に侵され帰らぬ人になってしまった。思いもかけないショッキングな出来事であったろう。それを、お子さんたちや、会社のスタッフ、周辺の方々と力を合わせ、故人の大きな遺志を頓挫させることなく、継承し、日々実現させつつ今日に至っている。説明がちょっと長くなったが、そういう方である。
 
その方にいただいた書物の感想なので、ブログ公開前に、その方に冊子をお送りし、畠山さんにもご一読願いたい旨、お伝えした。すると、数日後、
あの冊子をお送りした数日後、畠山さんからご丁寧なお手紙を頂きました。…著書の本質をつかんでくださったご様子に感謝しますとのことです。…一度ゆっくりお話したいともあります。…お時間があったら、電話を下さいませんか、とのことです。…」と携帯番号も書かれたメールをいただいた。
 
翌日、早速電話をして、ご著書のお礼を申し上げ、ブログアップの了解をいただき、「畠山さん上京の折にでも、是非、お会いしたいものです」など申し上げた。それから、ブログリンクの了承もいただいた。弟子入りの件は、まだ、それこそ、海のものとも山のものとも決断がついていないので、お騒がせするのは控えた。
 
三陸の海と、岩手の山と、少し離れた関東の平野とが、ますますつながっていくよう、方策を考えたい。
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第15話 『日本〈汽水〉紀行』に脱帽 [読書感想]

 書を読むなら、平安の才女が遠回しに物腰柔らかく語る紫式部の『源氏物語』か、それを、理路整然と、隙なく歯切れよく解説する三田村雅子氏の『源氏物語』のどちらかで、それ以外のものは読む気が起こらなかったが、4、5日すると、その高熱も少しずつ冷めてきた。〈文学史上稀に見る奇跡の大作〉の存在感は、それはそれとして、そこに自分の求めるものがすべて入っているわけではない。味わいたい対象ではあるけれども、そこに今さら埋没してしまうわけにも行かない。まだまだ他のものも物色しようぞという《あさり》の精神が舞い戻ってきた。
 
そうして読み始めた本は『日本〈汽水〉紀行』(畠山重篤著 文藝春秋発行)である。これも「飽きるでしょう」と、ありがたいことに知人が贈ってくれた本である。
 
第一章は「四面を海に囲まれその恵みを享受している日本人の多くが、つい見失ってしまっているものがある。(改行)それは、汽水域の恵みについてだ。汽水域とは、淡水と海水が混じり合う水域を指す。」との説明から入る。その汽水域が「海藻や魚介類の宝庫であり」、「人間と生き物たちが交錯する十字路」であると注意をひきつける。汽水域には多種多様な生き物がおり、そこで獲れる魚介類が殊に旨いのだと胃袋をつかむ。そして、三陸リアス・気仙沼湾から汽水域を巡る旅を始める。
 
第一章は、それから陸奥湾まで北上する。第二章は有明海、四万十川、屋久島へと飛ぶ。第三章は大海原の鰻の産卵場所から始まり、シラスウナギ遡上復活を待つ諏訪湖、房総、陸中から江戸前へ。第四章は、宍道湖の蜆、寒鰤の富山湾、北越の鮭を追う。第五章は … という具合に題名通り日本の汽水域を旅するのだが、あとがきに「当年八十五歳のお袋」が「『俄か物書きも大変だね……』などと言いながらも、毎月居ながらにして旅行をしているみたいだ、と励ましてくれた」とある。つまり、これは現地を巡り歩きながら書き留めた『奥の細道』のような紀行文ではない。では、三百ページにもわたって何が書かれているかというと、これがすごい、随所で〈参ったなあ〉と思いながら読んだとしか、言い様がない。
 
行かずに想像で書いたものかというと、そうではない。もちろん、然々の折にちゃんと現地を訪れ、鋭く視察しての話であるが、然々の折というのが、まず、すごい。縁(故)あって人が訪ねて来るか、その土地の人に招かれて出向くことになるのである。何がそのきっかけになっているかと言えば、著者畠山さんは、漁民が河川上流の山林に関心を持ち植林活動をする「森は海の恋人」運動の創始者であったのだ。その運動を通じて、各地の、海や川や森を大事にしようという人やグループ、自治体関係者などと交流が始まり、深まり、やがて現地を訪問する機会を得、その土地の現状や課題を把握し、その土地の運動に指針を与えつつ、特産品などを紹介するという、各地の汽水域とそこに生活する人々をつなぐ紀行文なのである。
 〈参ったなあ〉と思うのは、まず、科学的知識がきちんと披瀝されている点である。海に魚介類が豊富なのは、川から栄養成分が流れてくるからというくらいの認識しかもっていなかったが、〈鉄分が重要〉と物質を特定する。鉄分は、葉緑素の生合成、呼吸器系、窒素・リン・ケイ素などの吸収に不可欠、つまり、「鉄がなければ植物は成長できない」と松永勝彦教授(北海道大学水産学部)の研究を紹介する。しかしその鉄は、海にあっては、酸化鉄という粒子になって海底に沈んでしまうという。「その鉄を植物が吸収する形にする物質が、川の上流域の森林に存在している」「フルボ酸という物質」で、この物質が「土中の無酸素状態」で「鉄と結びつき、フルボ酸鉄になる」。このフルボ酸鉄は「極めて安定しており、」「そのままの形で海に届」き、「植物プランクトンや海藻が吸収できる」と教授の説を紹介している。(P.1517
 
これが、海の食物連鎖の始まりになるのである。
 
般若心経で言う「色即是空・空即是色」を「生き物(有機物)はやがて死滅し無機物になり、無機物はやがて有機物、そして命あるものに変わっていく」と解釈すると、その万物の流転の重要な鍵を「フルボ酸鉄」が握っているらしいのだ。
 
なるほど、海は広くて大きいが、大洋の真ん中に行けば魚が獲れるというものではなく、近海こそが魚介類の宝庫である理由はそんなところにあったのかと、大いに納得してしまうのである。
 
次に〈参ったなあ〉と思うのは、河口や海岸や海上の近景描写が、一々恐れ入るのである。こちらは関東平野の真ん中に生まれつき、海と言えば車や電車の窓から眺める遠景か、遠浅の海水浴場ぐらいしか、海辺の景色を知らないのである。さらに、魚介類についても、毎日のように食べているにも拘らず、その生態や養殖法、漁獲の方法をほとんど知らないのである。だから、それらの記述も恐れ入るばかりである。さらにまた、海産物の調理の仕方、そのうまい食べ方が紹介されていて、これは舌なめずりして、よだれをたらして、舌を巻くしかないのだ。
 
食い物と言えば、下世話な形而下の話と思いがちだが、そこ(旨い牡蠣の生産)から発して、汽水域に思いを致し、河口から川を遡って陸の人間生活に注意を促し、地球環境問題に貢献するとなると、これはなかなか高等な、壮大な、それでいてたいへん堅実なお話である。〈参ったなあ、弟子入りしようかなあ〉と心底思う。
 
我が身を振り返ってみると、仲間十人ほどとエッセイ倶楽部を作り、エッセイ集を編集発行していた。世の矛盾や不合理なところ、日頃思うことや感動したことを述べ合えば、何かしら世のため・人のためにもなるのではないかと思って、かれこれ13年もやってきた。仲間にも恵まれ、出来映えもなかなか良くなってきた。だが、何か物足りなくて ― というのは、書き手が年会費を払い、読み手が購読料を払い、編者が時間と身銭を切って発行を続けている、それだけの意味が確とあるのかどうか、単なる趣味、気休め、書き手の自己満足に過ぎないのではないかと思い始めて ― 昨年、思い切って止めてしまったのだった。
 
本職との関わりがどうなっていたかというと、本職は学習塾経営である。塾はプレミアム学習で、親は明確な目的を持って子どもに塾通いをさせ、余分な金を払う。明確な目的とは、たいていの場合、高校入試である。できるだけ(いわゆる)良い高校に入れたい。そのためには、そのことに熱心に集中してくれる指導者が望ましい。幅広い見識とか、深い思慮などにはあまり関心がないことが多い(ように思える)。また書き手になった時には、自分の商売の都合をちらちら考えていたのでは、書いていることの意味がなくなってくる。そのため、本職とエッセイ集の編集発行とは別のこととして分けて取り組んでいた。つまり、融合していなかった。
 
一方畠山氏は、本職の牡蠣生産の延長上、室根山に大漁旗を翻し、その旗印の基、日本各地と、ひいては世界のあちこちとも、しっかりしたネットワークを築いていったのである。というか、やるべきことをやっていたら、築けてしまったのである。
 
自分のエッセイ集編集発行の迷い、また自分の人生の中途半端さの原因がはっきりとわかったのである。何ごとも生産性が基礎になければ発展しない。一から出直さなければならない。
 
退院の日が見えてきた頃、ずしりと大きな課題が明確になった。〈今さら?〉の感もなくはないが、〈飽きない入院生活の後の生活も、また飽きることはなさそうだ〉という見通しが持てたとも言える。
 
私の受け止めはそんなところだが、畠山さんのことを思うと、実はたいへんな問題が潜んでいる。すでにお気付きの方も多いだろうが、この書が発行されたのは、2003年9月である。その7年半後に、東日本大震災が起こった。地震と津波に襲われ、養殖施設も、生活の場もずたずたになってしまったに違いない。本にも出てくるご母堂もお亡くなりになられたとのことである。被害を受けられた多くの方々にお見舞いを申し上げたい。沈痛な出来事である。
 
だが、地震と津波は天災であり、これは耐え偲んで、やがて立ち直るしかない。問題は、原発事故である。停電、補助電源設備の故障、その後の対策の粗末さがもたらした大量の放射能汚染である。汚染の程度は場所によって異なり、三陸海岸は幸い比較的少ないと聞いている。風評被害を生む恐れがあるので、話題にすらしたくないことではあるが、発電所近くの漁民の受けた被害は測り知れない。生活の場を汚染され、稼業の場である海を汚染され、完全に生きる場を奪われてしまったわけである。
 
フルボ酸鉄をたくさん運んでくるように、林野を、地球環境を豊かにしようとしていた運動が、放射能という猛毒を撒かれて、完全に水を注されてしまったであろう。それでも、原発事故は東洋の片隅で起こったことであり、地球全体にとって、「森は海の恋人」運動の重要性、普遍性に変わりはないという面もあるだろう。それにしても、桁の違う汚染を前に、まずは、「原発事故を未然に防ごう、そのためには、地震多発国で豊かな汽水域をたくさん有する日本列島では原子力発電は止めよう」という運動の優先を余儀なくさせられているのではないだろうか。
 
原発事故は返す返すも残念である。「起こり得る事態には何重にも備えがしてある。メルトダウンは起こり得ない」と言ってきた日本のエネルギー行政とその推進者が恨めしい。それをまだ続けようという、その反省のなさが、さらに恨めしい。
 
核エネルギーの利用は、医療や学問研究に限定すべきである。核兵器はもっての外だし、原子力発電も放射性廃棄物の処分や事故のことを考えると、コストやリスクが大き過ぎる。医療や学問研究に徹してこそ、日本は、技術大国、文明文化の先進国と言えるのではないだろうか。

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脱原発を訴えるテント(4/19ドビッチさん撮影・提供)
 
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第10話 『源氏物語』に陶酔 [読書感想]

 次の読書は『源氏物語』である。と言っても原書ではなく三田村雅子氏の解説書『源氏物語』(ちくま新書)である。1997年発行の名著で、入門書であると同時に、真髄にも迫り得る高度なものだと、ある源氏研究者から薦められた。今頃読んでいるのかと笑われるのは必定だが、この物語の何たるかを、少しは知っておきたいので読み始めた次第だ。読んで黙っていればよいのだが、これが、感動したので仕方がない。読書感想文というより感動体験記として、少しばかり書かせていただく。
 三田村氏は「読むという行為と、物語のしくみについて考えることが、二つのことではなく、同時に一つのこととして行なわれるような、そのような仕方で物語を考えていきたい」と「はじめに」記されているが、正にそのとおりに解説・解読してくださる。
 まず、「いづれの御時にか、女御更衣あまたさぶらひたまひける中に…」有名な冒頭文から入り、「この時代の天皇を絶対権力者と誤解してはならない」と時代背景を説明する。というのは、物語を作る人とそれを読む人はたいてい同時代で、同一の社会に属しているものだから、多くを語らず、ほのめかして済ませていることが多い。それ故、読む側は、どうしても時代背景を正しく知っている必要があるからである。ほのめかしから何を読み解くか、それがストーリーのその後の展開とどう絡んでいくのか、さらにそうして見えてくる「重層的」「物語空間」、また物語構造を切れ味鋭く解説してくれる。「天皇となる道を閉ざされた皇子の権力獲得のドラマである『源氏物語』」の意味を総体として捉えさせようという解説全体が、まず感動の第一点である。
 第二は、解明、解説、表現の切れ味の鮮やかさである。
 例えば68ページにこんな解説がある。
「『源氏物語』は、知られる限りでは女性の作者によって作られた最初の物語である。女子供の読み物であるから、すべてを説明し、解説してやらなければわからないと見縊る(みくびる)(筆者挿入)初期物語(『竹取物語』や『うつほ物語』など)の冗長な解説文体とは違って、『源氏物語』は、女たちのおしゃべり、ひそひそ話がそうであるように、意味深長に示唆し、匂わせ、仄めかすのである。そこには、自己と同性の「女」の読者というものへの、了解と信頼があったに違いない。作者がすべてを描ききらずとも、自分と同じような感受性を担い、同じような経験を積み重ねてきた読者であるなら、これだけの叙述でわかってくれるはずだという相手の能力に対する信頼と、期待のうちに、『源氏物語』は新しい歩みを始めているのである。」このような説得力ある簡明な解説から始まり、
「桐壺巻冒頭の唐突な桐壺更衣寵愛に、桐壺帝の即位にいたる政治的ドラマを読み取り、若紫巻の少女垣間見に、藤壺との罪の犯しの匂いを嗅ぎつけ、朧月夜への耽溺に、藤壺への執着の変奏を聞きつけてしまうような、書かれたものと書かれざる奥行きを常に響き合わせ、書かれざるものへの読みを促してやまない誘惑に満ちた叙述こそ、『源氏物語』が女の書く物語としての制約と縛りを逆に切り返して、獲得した物語の『方法』であった。」と続く。見事としか言いようがない記述である。
 こんな記述が随所に登場するのだ。
 第三は、千年後の才女が、このように物語の中に入り込み、登場人物の身になって心情を存分に推測したり、物語の外に出て、語り手の手法を想像したり、長編物語の全体を関連付けたりして解説しても、齟齬を来さないそもそもの『源氏物語』とは、一体何なのか、そのことに改めて驚くのである。
 紫式部は、一時代の、権力中枢に繰り広げられる複雑な人間ドラマを、なぜこのような長編小説の形で見事に表現することができたのだろうか、そこに思いを巡らせずにはいられない。
 女のおしゃべりの体裁を取りながら、そこに人間ドラマの真実を炙り出すために、大胆にも禁忌にさえ挑んでいるのである。「表現の自由」などが認められ、保護奨励される時代ではないにも拘らず、立派に時代と生き方の真実に迫っているこの著者の力はどこから来るのか…?
 平安時代の上流階級の女性は、教育レベルが高く、洞察力にも優れ、かな文字が普及し表現力を身に着けていたのだろうが、ここまで、時代と人生(人の一生という縦の時間の流れと、周囲との係わりという横の広がり)の真髄を見抜けるとは、不思議なことである。
 その鍵は、やはり、この物語にあるようだ。男の血筋が極端に尊ばれる時代に、女の存在は、いかに高貴な血筋の子を宿すか、そしてその子の出世によっていかに一族に繁栄をもたらすか、その単純な一点に懸かっている。(現代でこそ、子供は両性の遺伝子を半分ずつ受け取り生まれてくると認識されているが、それ以前は、男の種(遺伝子)が女の胎を畑として育つくらいに思われていたのである。さらには産みの親よりも乳母や育ての親のほうが大事とすら思われていたのである。)そういう競争の渦中にあれば、美貌と教養をたゆまず磨き、物語の数々の登場人物のように、運命に、あるいは男の好みに、一喜一憂し、あるいは従属して一生を終えるのだろうが、才能のある人が、一端競争の枠外に出たり、競争に覚めてしまうと、そういう時代の偏りが見えすぎるほど見えてしまうのだろう。そうすると、それを批判して苦情を言うよりも、一物語として、切り取って、みなで鑑賞して、後世にもあわよくば遺してやろうという壮大な野心が生まれるのかも知れない。
 『源氏物語』は、生き方を閉ざされた女性の不自由さがもたらした、果てしない自由空間を目論む一大傑作なのかも知れない。それ故、鑑賞する人、研究する人が跡を絶たないのだろう。
 そんな余韻を残して、本書を読み終えた。
 
千年を挟んだ二人の才女のコラボレーションに酔い痴れていたら、しばらくは、この本を読み返す以外、何も読みたくなくなってしまった。
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第7話後日談 『一隅…』の先生とナマ電話 [読書感想]

 『一隅の管見』(桐生タイムス叢書)の著者山本輝通先生に、友人のI教授(君と呼べと言うから次からは…)を通じて『~治療の合い間に』の原稿冊子をお届けした。するとI君を通じて、山本先生からお手紙が届いた。
「今回はご入院の体験記の中に『一隅の管見』を取り上げていただき、更に詳しい解説付きのご感想をお示しいただきました。本書を読んでいない方にとっては、よく意味のわからないものになっているのではないかと案じましたが、内容が分かるように書かれており、さすがと感じました。 … 入院感想記は、医学的にも誤りがなく、たいへん面白く、勉強になりました。 … 」嬉しいことにそう書かれていた。そして、本完成後桐生タイムスに掲載されたコラムのコピーも、約一年分、添えてくださった。
 お墨付きをいただいたので、まずはそれをいくつか紹介しよう。
   便(桐生タイムス 2012年5月7日より)
「便」は「郵便」の便であり、「交通の便」の便でもある。「大小便は健康状態を示す大きな便り・小さな便りであるので、毎日それを観察するよう努力したい。」
   千と万(同 2012年1126日より)
 
日本銀行券に注目する。福沢諭吉の札は万円と書かれているのに野口英世の札は千円。百円、千円と言うのに、なぜ万円と言わないのか、その差異を考察、試論を展開する。五円硬貨の矛盾も発見。
   介護保険(同 2013年4月8日より)
「介護の現場では『入浴前にバイタルチェックを行ないます』のように使われるが…専門用語は医療従事者間だけで使用するもので…『これからお風呂に入ります。その前に、ふだんと変わりないかどうか、お一人ずつ確かめるために、脈をとったり血圧を測ったりします』と老人にも分かる言葉で話すべきだ。」と具体的に諭す。
 三つ挙げたが、これらが代表作というわけではない。短く紹介しやすいものを挙げたに過ぎない。ほとんどが知識や内容がぎっしり詰まっていて、「全編読んでもらうのが一番」というエッセイである。
 話題が豊富で尽きそうもないところがすごい。医学と法律と言葉の知識が並外れて豊富で、好奇心が旺盛で、加えて生きている時間が長くて経験が豊かなのだから、この方は、桐生タイムスの、桐生市民の、群馬県民の宝物であろう。いやいや日本国民の宝物と言ってもよい方である。
 その方と、今日(5月17日)先ほどお電話で直接お話をしてしまった。一年前に胃癌の手術をされたというが、想像していたとおり、お元気できさくな方だった。18年も先輩だが、病気仲間として、またエッセイ仲間として、末永く、ご指導いただきながら、お付き合い願いたいと申し上げた。
 先生も喜んでおられたので、I君のお陰でつながったご縁が、しっかり結ばれたような気がして嬉しくなった。燦Q

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第7話 『一隅の管見』の隅 [読書感想]

 読書感想記が続く。先日、近くの大学で工学部の教授をしている友人が、本を一冊届けてくれた。「長年血圧を診てもらっていたかかりつけのドクターが最近出された本」とのこと。『一隅の管見』(桐生タイムス叢書 山本輝通著)とある。
 
山本先生は大変ユニークな方で、内科医をする傍ら、法律をはじめ、様々なことに造詣が深く、診療に行くと色々な話をしてくれたという。その先生が何度も校正をして、間違いは一箇所きりだという本なので、ぜひ誤植を見つけて知らせてやりたいと、友人は言う。
 
何? 間違い探し? そう言われると、この間までエッセイ集を編集発行していた(セミ)プロ意識がムクムクと頭をもたげる。
 
私は自分の文章の校正にはとんと自信が持てないのだが、他人の書いたものとなると、しっかりセンサーが働き出す。4冊目は飛び入りでこの本となった。
 
この本も面白そうなので、内容を紹介しながら、細部の点検作業をしてみよう。
 
ハードカバーの上製本を早速紐解くと、山本先生は一九三〇年生まれ、現在八二才余。約三年半前に診療所を閉じられ、その後、桐生タイムスに毎週一回随筆を寄稿。本書はそれをまとめたものとのこと。
 
第一部の「はじめに―恩返しする気持ち」に診療所を予定より早く閉じた理由が書かれている。
「数年前から医療をめぐる環境は年ごとに悪化し、このままでは良心的な医療は不可能と考え、社会に一石を投じるつもりで実行した。」また「第一線の臨床医は、眼前の患者さんだけに目を奪われ、その治療に専念するのに精一杯で、医療制度にまで深く考えるゆとりがないのを反省すべきではないか。」と、同僚医師を叱咤激励している。のっけから(社会)正義感の強さが表れていて気持ちが良い。
 だが、この最初の作品に、早速気になる箇所が出てしまった。
「そもそも、医師を職業として選んだ理由は、社会的地位が高いとか、経済的に恵まれているからではなく、病人を助けたい、社会に貢献したいなどの理想と希望を抱いて、医学部に進学したのだろう。」意味はよくわかるし、気にならない人も多いと思うが、ゆっくり読んでいると、こういう文が気になってしまう。ではどうならすんなり読めるか。
「そもそも、医師を職業として選んだ理由は、社会的地位が高いからとか、経済的に恵まれているからとかではなく、病人を助けたい、社会に貢献したいなどの理想と希望を抱いたからであろう。」
 また、この作品末尾の文も手を加えたくなり、これは前途多難かなとちょっと心配になったが、以降は大変しっかりした文で、構造上問題になる文はほとんどなかった。
 第2話(原典に序数は付されていない。筆者が便宜上付けている。)は「新型インフルエンザ」である。
「接種医療機関には、群馬県保険予防課から頻繁に書類が郵送されてくる。全部読み終えないうちに、次の冊子が届くことさえある。それが文字どおり朝令暮改で、中には矛盾する内容さえある。」よくわからないことを、行政が責任を逃れながら管理・指導しているいい加減さが、句点を含め、まったく問題なく書かれている。
 第3話から第5話までは「死亡診断書・その1~その3」である。戸籍や死亡診断書の様式にまつわる細かな話が書かれている。山本先生の関心を法律に向けるきっかけとなった出来事と思われる。「校正係」気付くところナシ。
 第6話は「駅の放送」。駅のプラットホームに電車が入ってくるとき、「列車が参ります。危ないですから黄色い線の内側に下がってお待ちください。」耳慣れた放送だが、通過する電車も停車する電車と区別なく同じ放送が流れていて危険なので、関係者に改善を求め、それが実現したお話。校正係出番ナシ。
 
第7~9話は「戸籍 その1~3」。「その1」は戦死として抹消された兄の戸籍が復活したお話。「その2」は先生の次男の母の名が間違っていて訂正したお話。間違いの原因は「ミ」が「シ」と誤記されたため。しっかり区別・判別しないといけない。校正係としてはいずれも出番ナシ。「その3」は生年月日訂正のお話。校正係、出かかるが引っ込む。
 第10話は「確定申告」。昨年分の収支を報告するのに、昨年を本年と称する矛盾に噛み付く。出番ナシ。
 
11話は「若干と弱冠」。ジャッカンにまつわるお話。出番ナシ。
 
12話は「広辞苑」。広辞苑の版による違いについてのお話。ところで、先生は「広辞苑段位認定委員会から最高位十段の免許をいただい」ているそうな。さすがだ。当然、出番ナシ。
 
13話は「品格・品位」。桐生市に品格を求めたいというお話。「決定していただきたい」という謙譲表現が少し気になる。「して欲しい」が良いのでは?
 
1416話は「郵便料金」。切手を貼ったら重量超過になった! など興味深いお話。いずれも出番ナシ。
 
17話は「懲役」。後期高齢者医療制度の被保険者証の裏面に「不正にこの証を使用した者は、刑法により詐欺罪として懲役の処分を受けます」と記されているが、違反者の処罰を決めるのは司法の役割なのだから、被保険者を恫喝するような表現は改めよ、と迫る。先生は、市民・弱者の味方で心強い。出番ナシ。
 
18話は「中通り大橋」。橋についての雑学の極み。八さん熊さんの話なので、あるいは冗談なのかもしれない。面白いお話。出番ナシ。
 
19話は「郵便小包 その1」。公立高校入試問題に違法な話が載っていて、これを指摘。県教委が白旗を揚げたお話。「今年の年賀はがきにある元局長が~」「今年の年賀はがきに、ある元局長が~」のほうが読みやすい。
 
20話は「郵便小包 その2」。今度はNHKが無条件降伏。「現在はいれてもよいと受け取られがちだが」は「現在は入れてもよいと~」である。また、これは内容についてだが、「前回の入試問題は関係者が数人…だが、~」とあるが、入試問題も実は関係者が大変多い。受験した生徒はもとより、その後、過去問題として県内外で大勢の生徒の教材となるのだから。
 
21話は「東武鉄道」。県作成の英文地図に誤りを発見。東武鉄道社長から感謝状が届いたお話。出番ナシ。
 
22話は「東京電力」。独占企業が「毎度お引き立てに預かり~」は可笑しいだろう、というごもっともなお話。出番ナシ。
 
この辺で校正作業レポートと御本の紹介は止めようと思う。作業自体は終わりまで続け、あと十箇所程度、著者と相談したい場所を見つけ、友人に報告したが、いずれも重箱の隅っこである。タイトルが『一隅の管見』なので、「一隅のさらに隅」である。しかしなるべく誤り少なく、また読みやすいほうが良いので、校正係はやるのである。
 
お話は、数えて百個載っている。先生は身体のドクターであったばかりか、社会のドクターでも居られる。ますます、お元気で、政治・行政・巷の出来事に眼を光らせ、国を、地方を、そして我々庶民を導いていただきたい。
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第6話後日談 池内先生からおはがき [読書感想]

 第6話の目的が、著者のあとがきに応えることであったため、書きあがったとき、僭越とは思いながら、出版社を経由して、池内先生当てに原稿をお送りした。すると、一週間くらいして、一通のはがきが、なんと池内先生から筆者の許に届いたのだった。

 桜が残っていれば「花冷え」というところですが、4月中旬のちょっと寒い週末です。
私の著書『科学の限界』を読んで頂き感想まで書き送って下さり、ありがとうございました。こんなふうに「あとがき」に対する感想まで書いて下さったのは始めてです。色々と、私自身も気づかない(はっきり意識していない)ことも発見でき、感謝しています。幸い病気の後遺症もなく、元気でやっています。まだもう少しがんばれ、ということなのでしょう。
 ありがとうございました。

 とある。私はびっくり仰天、大喜びでお返事を差し上げようと思ったのですが、先生の所番地が書かれていないため、書いても返送されてきてしまうだろうと思い、それは断念しました。その思いを、許可もいただかずブログで表すのはいかがなものかと思いながらも、御著書やおはがきに表れた先生の澄んだお心からして、きっと許してくださるだろうとの確信から、ここに掲載することにしました。
 私は、少しでもお役に立てたこと、またこのような自筆のおはがきをいただいたことがたいへん嬉しく、心から感謝しております。ブログ掲載について、万一不都合がございましたら、すぐに削除しますので、ご一報くださいますよう、よろしくお願い致します。


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第6話 『科学の限界』を点検? [読書感想]

 放射線治療のための入院生活は暇である。いつ回ってくるかわからない順番を日がな一日待っている。午前中来ることもある。午後3時ごろ来ることもある。だが、そんなことは稀である。夕方6時前後のことが多い。回ってくると20分ほどで終わることを一日泊まって待っているのだから暇だ。
 
では退屈かというと、これがそうでもない。こんなときにやることに、実は事欠かない。携帯メールで連絡を取って用を済ませたり、散歩をしてあちこち探索したり、本を読んだり、思いつくことをメモ書きしたり、まあ、飽きるということはない。本だけを取り上げても、読みたい本、読まなければいけない本がたくさんあるのだ。普段読めばよいのだが、雑用が多くなかなかその時間が取れない。
 
これは絶好のチャンス!とばかり、まず読み始めたのが『科学の限界』(ちくま書房 池内了著)。入院前に友人からいただいた本だ。「二〇一一年三月一一日に起きた震災と津波と原発事故は、現代科学・技術における限界を露呈した。地震の発生や規模を予知することができず、迫り来る津波の脅威を周知徹底させることができないまま多大な犠牲者を出し、最新技術の粋であるはずの原発が無残にも破壊されて放射能を撒き散らしたのだから。…」でその本は始まる。(この冒頭の一節だけでも、十分読む価値のある本であることがわかる。良き友を持ったものだ、燦Q!)
 
そして、現代の科学・技術が色々な角度から終焉を迎えつつあることが、また、制限・制約を受けていることが書かれている。右肩上がりで成長し、信奉されてきた科学・技術だが、今は多くの人がその進歩や見通しに疑いを持ち始めている。文明そのものの向かう先が危ぶまれている。そんな疑問を科学者自身が発し答えようという書物である。
 
むずかしい話もあり、理解七(六?)分目程度で、概ね賛同しながら読み進め、〈よし、1冊(3冊目)完了〉と「あとがき」を読んでいてびっくり仰天。
 
原稿を書き終えてゲラが出てから「あとがき」を書くまでの間に脳梗塞になってしまったというのである。その様子がつぶさに書かれ、その検査・治療中に「ゲラの校正に励んだ」とのことだ。そして心もとないから、読者に以下のことをチェックして欲しいとある。
「(1)事実関係に誤謬はないか?
 
(2)論理に矛盾や飛躍はないか?
 
(3)言葉遣いが粗っぽくなっていないか?
 
(4)くど過ぎる表現となっていないか?
 
(5)言葉の使い方に偏りはないか?
 
(6)過度に単純化していないか?
 
(7)語尾が類型的になっていないか?
 中身についてはそれなりに自信は持っているものの…」と書かれている。
 
こういうタイミングで脳の病気に襲われることがそもそも珍しいことと思うが、こんな真摯で謙虚なあとがきに出会ったことはかつてなかったように思う。それで、これは是非とも一読者として感想を書いて差し上げなければと思った次第だ。そこで、もう少し丁寧に読み直し、読者の皆様に本書の内容をより詳しく紹介しながら、著者の心配事を共に検証してみようと思う。
 
(1)事実関係に誤謬はないか?
 これを判定できるほど諸事実を知らないので、これは遠慮せざるを得ない。
 
(2)論理に矛盾や飛躍はないか?
 この点を、本書の粗筋を紹介しながら、共に考えてみようと思う。
 本書の第1章は「科学は終焉するのか?」
 ここでは一九世紀末に出された「科学終焉」論と、二〇世紀末ホーガンによって出された「科学終焉」論を紹介する。
 前者はニュートン力学とマックスウェルの電磁気学によって全ての事象が説明できる、科学は行き着くところまで行ったと思われた時代である。しかしこれは「次の大発展の予兆に過ぎなかった。」実際には、マクロの面でもミクロの面でも説明できないことがあり、アインシュタインの相対性理論や、量子力学によって「ブレイクスルー」されるのである。
 一般に、いくら知っても知れば知るほど、新たな疑問が湧くものであるから、科学終焉論は皆、停滞期に現れる一時的なものと思われる。
 だが、二〇世紀末、科学ジャーナリストのJ・ホーガンが『科学の終焉』と『続科学の終焉』を発表し、「技術に絡む応用科学は別として、普遍的な真実の解明を目指す純粋科学は終わりに向かっていると宣言した」と紹介する。
 さて、終焉論は百年に一度繰り返す人類の不安症の表れなのかどうかであるが、その前に、両者の終焉論は「終焉」の意味が違っているように感じられる。一九世紀末は「もう知り尽くした」であり、二〇世紀末は「人知の及ばないことはまだまだあるが、様々な点で限界に達したので、はかばかしい進展は望めない」という限界論である。二つ並んだ(並べた)終焉論だが、異質なものであり、著者は明瞭には述べていないが、〈後者は重く受け止める必要があり、限界を丁寧に考察して対策を講じないと本当に終焉してしまう恐れがある〉という論理構成である。そこで、次章以降でそれらを考察してみよう、となる。
 矛盾はないが、もっとはっきり書いてくれたほうが、凡人にはわかりやすい。もっとも賢い読者にはこれで十分なのかもしれない。
 
第2章は「人間が生み出す科学の限界?」
 
タイトルの意味がやや判り難いが、人類の一般的な性が科学にもたらす限界を考察している。例えば、人類の英知の大きな進歩は二百万年前、六〇万年前、二〇万年前、六万年前と、時間をおよそ1/3に短縮して進んできた。一方、技術(文明)は、四〇万年前の火の使用、一万年前の農耕革命、二五〇年前の産業革命、六年前のIT技術による情報革命と、時間を1/40に短縮して発展してきた、という説明をされている。要は英知の進歩に比べ、技術文明の進歩のほうが時間の短縮が激しいという指摘であるが、言わんとすることは理解出来るものの、この説を採用してしまうと、先の見通しが一切、立たなくなる。
 
つまり、1/3説、1/40説は、今(現代)を収束点にしてしまっているので、この法則自体が大テーマとなり、じっくり検証する必要が生まれてしまうと思う。
 
唯一、論理に納得がいかないところである。
 
人間の性がもたらす限界としては、物理学が「いずれにしても、五感を離れた世界に彷徨い出ているのは確か…」と指摘する。
 
一方、二一世紀の科学の本命と目される生物学は「人間の役に立つという役割を過剰に背負わされている」うえに「人間は複雑系であり」多様なものだから「物理学が得意とする要素還元主義」で推し進めることがむずかしい、と指摘する。
 
また、科学者が、富や名声、地位など、真理以外のものを求める可能性が否定できず、捏造や倫理違反も起こり得る。「思い込み」や大勢に与するまいとする反骨精神が科学の進歩を遅らせる場合もあると、科学者に(も)ひそむ、人間の精神の限界を指摘する。
 
第3章は「社会が生み出す科学の限界」
「一九世紀半ばに科学が国家の制度に組み入れられ、国家が科学の最大のスポンサーとなった」ことから様々な制約が発生している、つまり、各国の政治や国際情勢が強く反映するようになったと指摘している。また、資本主義のグローバル化が進む中で、経済論理が強く主張されるようになり、知の追及より、一刻も早い商品開発へとエネルギーが注がれるようになったと指摘。社会(政治・経済)の影響の例として「地震予知」や「原子力ムラ」の問題を挙げている。
 
第4章は「科学に内在する科学の限界」
 さすが科学者で、この章に一番ページを割き、力点を置いているのだが、この章を概略手短に紹介することは私の手に余る。項目だけをいくつか挙げるので、興味のある方は御自分で確認していただきたい。「不確定性関係」「ブラックホール限界」「不完全性定理」「一回きりの事象」「非線形関係」「複雑系の不確定度」など。
 
第5章は「社会とせめぎ合う科学の限界」
 再び社会との絡みがテーマに挙げられるが、今度は現代文明の行く手に立ちはだかる大きな問題とのせめぎ合いである。ここも項目を挙げるに止めさせていただこう。「地下資源文明」「地球環境問題」「エネルギー資源問題」「核(原子力)エネルギー問題」「バイオテクノロジー問題」など。
 そして第6章は「限界の中で―等身大の科学へ」
 著者が構想する科学の姿が描かれる。戒めを含む提言である。私は次のように受け止めた。
1.文化のみに寄与する営みを取り戻すべきだ。
2.科学には二面性があり、善用も悪用も可能である。一つ間違えば大きな災厄となり得る。科学者は倫理感を研ぎ澄まし、人間を大切にする科学を発展させなければならない。
3.ビッグサイエンスから身の丈(あまり費用がかからず誰もが参加できる)の科学へ。人体や地球環境など、複雑系が対象になっているので、数多くの科学的観察報告が必要になっている。
4.「科学は無限ではないけれど、有限でもない。その限界点は、時代とともに変化する。科学者と市民との連帯の有無がそれを決める重要な要素なのである。」と締めくくる。
 全体の論理の流れに矛盾は無いと言えるのではないだろうか。むしろ、大変よく考えられていると言えよう。欲を言えば、第6章にもっとボリュームがあればなお良かったと思うが、本書は科学の限界について論を述べたものなので、今後の在り方については、稿を改めて挑まれるお積りかもしれない。 さて、本書を読んで、西洋文明を推進してきた、実証性とか要素還元主義に基づく科学的進歩は、そろそろ限界に達しているのかなと思う。それでは人類の知的進歩はこれで終わるのかというと、そういうことはあり得ない。むしろ、科学に集約された感のある人間の知的活動が、解き放たれつつあるのだろう。博物学、哲学、文学、歴史学、民俗学…様々な人間の知的活動が、再び活性化し、折角得た科学的知識から逸脱することなく、人類の英知を結集して、少しずつ未知の領域に迫り、人類の未来に貢献していく、そういう人類の歩みを構築して行きたい―そんな読後感を抱いたことを、感謝と共に著者に報告申し上げたい。
「脳梗塞になっても変わらず示唆に富む本」をありがとうございました。くれぐれもお大事に!
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