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片付け作業の合い間に-「あの戦争」と活花帳 [生活エッセイ]

治療の合い間から片付けの合い間に
 放射線治療が終わって6ヶ月余りが過ぎた。ここしばらくは家の片付け作業が続いている。放射線治療のときは、入院していて、1日30分の治療と一時間程度の散歩意外はやることもなく暇だった。その間に本を読んだり感想を書いたり、病友や看護師さんとだべったりして、人の間のぬくもりを楽しませてもらったりもした。今は、お陰様で、時折、痔が気になる程度で、他には特に変わったところもなく過ごせているものだから、家の片付けが生活テーマとなっている。片付け仕事というのは、入院生活とはおよそ正反対で、持て余す暇がまったくない。「暇さえあればやる」ことなのだ。ブログを書いている暇もなかった。
 さて、その片付けだが、棟続きの親の家の8畳間は、空にして、見事、壁と柱と床を取っ払って車の通路にしたことは既にお話しした。その8畳につながる部屋が2つあり、そこも、長らく、弟の物置になっていた。棚の重みで畳は歪み、雨漏りで天井もシミだらけになっている。そこで、その2部屋を片付けて、フローリングにしようというリフォーム計画を立てた。こんな私的なことは、まったく書かずに済ませたいところだが、何をそんなに片付けることがあるのかと不思議に思う方もおられると思うので、仕方なし、概略ご説明申し上げた。
 元々の部屋の住人は両親だが、母親が亡くなってから16年、父親が亡くなってから7年たつ。だがその後、多数の電気製品を所有し、それらでビデオテープ、CD、DVD等を日々産出し、雑誌をあまた定期購読する弟が棲みついたものだから、親の遺品整理が、ほとんどできていなかった。
 弟の所持品は膨大で、入退院を繰り返すようになった昨年の秋から、大量の片付け作業をやってきた。それがいよいよ大詰めに近付き、最後の1部屋となった。だが、そこに残ったものは処分に迷うものばかりで、2日3日取り組んでも、これがなかなかはかどらない。
 親のアルバムや日記、住所録、手紙、業績を讃える感謝状等々。古い本も、貴重に思える写真集はあるし、ケースに入った上製本もたくさんある。片付けというのは、ただ捨てる作業は単純な肉体労働だが、分別判断を伴うと、なかなかの精神労働だ。日限が迫っているとみな捨てることになるし、判断を丁寧にやろうとすると、片付け作業が進まない、終わらない。今回は、リフォームの日程が決まっているので、それに合わせてやるしかない。なるべく丁寧にやりたいが、職人さんが作業に取り掛かるときには空にするしかない。

片付けの合い間に「あの戦争」が気になる
 そんな片付け作業を、昼間は暇さえあればやりながら、しかし朝晩は(朝方早く目覚めてしまったときとか、晩方寝つくまでの間とか)気になって読んでいる本があった。『あの戦争は何だったのか』(新潮新書保阪正康著)。まだ書店に並べられそうな本を買い取ってもらいに行ったブックオフで見つけた本だ。あの戦争は、国家の間違った選択で、二度とあのような不幸を、国民や周辺諸国民にもたらすような社会運営をしてはならないという戒めだと、私自身は認識しているのだが、しかしどうも世の風潮は、必ずしもそういう認識で統一されているわけではなさそうだと最近は感じている。そこで、この本はどう捉えているのか、咄嗟に興味が湧き上がり、ありがたくも105円で持ち帰ってきたのだ。
 さて、どういう立場で一家言なしているのだろう、この本は?と思いきや、早速「はじめに」で次のメッセージを発している。
《歴史的検証が充分なされていないのは、一つには、平和教育という歴史観が長らく支配し、反戦・平和・自由・民主主義…といった美辞麗句をちりばめ、史実の理解もなく、臭いものには蓋をして、一元的に語ってきたからである。またもう一つには、この反動として、「新しい歴史教科書を作る会」のような人たちが「大東亜戦争を自虐的にとらえるべきじゃない」などと、これも感情論で歴史を見るからである。》(筆者の要約)
 両者を排して戦争の内実に迫ろうとしている。これは頼もしい。是非ともこの本で勉強させてもらおう!と読み始めた次第だ。
 第一章は「旧日本軍のメカニズム」職業軍人へつながる教育制度、一般兵を募る徴兵制の仕組み、帝国陸海軍の機構図が書かれている。
 子どもたちに「大人になったら何になる?と質問すると、「陸軍大将」「海軍大将」という答がたくさん返ってきた時代である。どのような養成機関があり、そこで何が教えられていたかは、当時の社会を理解する上では是非とも知っておかなければならないことである。軍国主義と言われた時代の軍人はどのような教育を受けて育っていったのか、第一章はそれを解説する。
 第二章は「開戦に至るまでのターニングポイント」を探る。そして暴力が社会を支配する風潮を決定付けた出来事として2・2・6事件を挙げる。そして日本は「坂を転げ落ちるように、真珠湾に至る」
 第三章は「快進撃から泥沼へ」「無謀とわかっていながら、しかし誰も『ノー』とは言えず、曖昧なまま始まってしまった太平洋戦争―。この章では、真珠湾攻撃から半年にわたる“快進撃”、そして初の決定的敗戦となった『ミッドウェー海戦』と『ガダルカナル攻防戦』、その後の“泥沼”に至る転換点となるところまで」を説き起こしている。ミッドウェー海戦は昭和17年6月5日、奇襲のつもりが完全に読まれていて返り討ちに遭ってしまうが、海軍軍令部は、この敗北をひた隠しにする。以降ガダルカナルをはじめ、各地の戦場で日本軍は苦戦を強いられ、多数の兵士が命を落としていく。

片付けが「あの戦争」とつながる
 そんなことを本で学び、悲惨な戦場の様子を想いうかべ、日本人のどこがそういう社会を作ってしまうのだろうなどと、頭の片隅で思いながら、昼間の片付け仕事をしていたところ、お袋の遺品の中から一冊の小さいNoteBookが出てきた。ワニの鱗を細かくしたような柄の、赤黒いしっかりした表紙がついている。古くて、中の紙は全体がカーキ色に変色している。表紙をめくると「活花帳」と自分で書いている。その脇には「一切のものに対して愛と謙遜を忘れない時、女の叡智はかゞやくであらう」と縦書きで記している。ぺらぺらめくると、余り上手とは言えない活花の素描と、活けた花の名や活け方、材料代、心得などのメモ書きが、罫線に沿って横書きで記してある。昔のことだから、結婚前に花嫁修業として活花教室に通っていたのであろう。
 所々に日付が入っている。まずは昭和16年8月9日とある。まだ日米戦争開戦前だ。かさかさ乾いて破れそうなページを5枚ほどめくると、昭和17年度とある。オー、始まってしまったなあと思いながらまたページをめくると、2月24日のページに、いつもの横書きのメモと違った縦書きの数行が目に入ってくる。読んでみると、
 チラチラ粉雪の降る晩
 家も樹も皆真白だった
 私の紅いあしだが埋れて…
  こんな祖国の風景を
   南の兵隊さんに
    お目にかけたいと思った   とある。
 このときお袋(に、いずれなる人)は誕生日を迎えたばかりの21歳。国を挙げての戦争の影が、こんなところ(戸棚の箱の中)に潜んでいたのだ。勝ち目も終戦の目算もないまま始めた戦争!杜撰な情報管理、作戦決行でどんどん窮地に追い込まれていく戦場!そうとは知らない一般大衆は、召集令状が来れば勇んで出征し、残った者はそんな兵隊さんを心底思い遣る…
 片付け作業は、大半は消耗的だが、こんな発見もたまにはあるものなのだ!差し迫った片付けはとりあえず一区切りついたが、まだまだやらなければならないことは山のようにある。効率よくせっせとやらなければいけないが、埋蔵品の発掘も疎かにはしたくない。となると、嗅覚というか、第六感が大事ということか!

P1000508 活花帳とあの戦争.JPG


現代不要品処理事情の続き+カー修理事情 [生活エッセイ]

 たかが一個人の経験を「現代~事情」などと大袈裟なタイトルをつけ、お騒がせして申し訳ありません。ゴミ捨て事情をもう少し。
 今週の火曜日、もう4、5日前のことだが、例の私にボランティアしてくれる軽トラの友人が、またやってきてくれた。その日は、高く伸びたシュロの木の枝というか、葉と実を落としに、植木屋さんよろしく高い脚立を持参して。
 家にも、閉じると2mぐらいの長さで、足を広げて立てると、1.8メートルぐらいの高さになる普通の脚立はある。その脚立のてっぺん近くまで登って、植木鋏の届く範囲の葉は、前回、一年ほど前に、まだ、放射線治療をしていない頃、つまり、股に自信があった頃、いや不安がなかった頃、私が自分で刈り落としたのだった。その後、またどんどん葉や実をつけながら上に伸びたために、もう切り倒すしかないと思っていたのだ。
「まだ切らなくてもいいだろう、オレが散髪をしてやるよ」とやってきてくれた。彼の持参の脚立は、脚立というより正に三脚、3本脚で3m以上はそそり立つ。つまり裏側が、支えの支柱1本なのだ。ちょっとよれると倒れてしまいそうで心もとないが、その分、表側のはしごの部分の下が広がっていて、わりと大きな三角形の広がりを大地に突き立てるのだ。シュロが我が家の三角形の土地の先端の、隣地との境界近くに生えているので、隣のビルの外階段に、裏の支柱を立てさせてもらわなければならない。階段を使わせてもらうことは了解を得ていたが、階段に脚立の脚を置くなど普通の脚立ではとても無理な話である。ところが、一本足ならそれも可能なのだっだ。
 高いところに登って、彼はバサバサ切り落とす。足場の安全確保のために側で見守っている私の頭上にドサドサ降ってくる。
「オーイ、サルカニ合戦じゃないんだからさあ…」
「んー?」聞こえていないのか、聞こえない振りをして楽しんでいるのか、容赦なく枝を切り落としてくる。30分もすると、シュロはすっきり、大層スマートになった。こうしておけば、多少大風が吹いても、倒れて通行人に迷惑をかけるようなことはあるまい。
 刈ったシュロの葉っぱと珊瑚のようないかつい実の枝を軽トラに積み込んだ。3抱えぐらいはあったろうか。

P1000480ds.JPG

 さて、軽トラ仕事は実はもう一つあるのだ。畳を捨てに行くことだ。
 日本の住まいは、かつては和室が当たり前で、一間か二間、洋間を作ったものだった。畳の当たりの柔らかさ、温かさは木の床に勝るものと思っていた。いや、いる。特にこどもがよちよち、はいはいしているときには床は畳みのほうがいいだろうと思う。ところが、どうしたわけか、今はフローリングが当たり前と心得ているようだ。我が家も古くて歪んだ畳をフローリングにしろと、みなが意気盛んだ。かくして、不要な畳が何枚も出る。そのうちの4枚半が既にめくれる状態になっていた。
 業者も引き取ってくれるのだが、1枚 1,800円とのことだ。これを市の焼却場に市民が持っていくと、1日10枚までとか言っていたが、10キロ150円で処分してくれるのだ。先日八畳間を壊したときにも、業者の勧めで捨てに行ってきたので、勝手は知っている。。
 シュロの枝葉の上に、重い畳を積み込んで、7~8キロ離れた焼却場に持ち込んだ。指示に従い車を走らせ、まずは畳を焼却炉に投げ込んだ。管理棟前に戻ると、計量の結果、120キロ1,800円とのこと。お金を払ってそこを通過し、Uターンして再び同じことをすると、シュロ(一般ごみ)のほうは、20キロで無料とのこと。一般ゴミは、50キロまでは無料で、それを超える分が10キロ10円とのこと。大変安くゴミを受け入れてくれている。これは、市の衛生車が無料でごみ収集をしている代わりに搬入してくれるからという配慮があるからと思われる。
 有り難き友人のお陰で、ゴミ捨て事情の追加報告ができた。

 ところで、もう一つ報告したいことがある。
 親戚の法事で、車を連ねて移動したときに、ブレーキランプの一つが点かないことが判明した。よく見ると、赤いテールランプの上のほうが少し割れていて、そこから水が入って点かなくなってしまったようだ。いつそうなったのかは不明だが、保安部品だから早く直さなければならない。日産の車なので、早速近くの埼玉日産に相談に行ったところ、3~40分待たされて出た見積もりは「リアコンビネーションランプ、部品 17,745円、技術料 5,387円、計 23,132円だった。もう11年も乗っている車で、宝くじでも当たればすぐにでも燃費のよい車に買い換えなければいけないと思っている車なので、わずかの修理に2万円以上かけてしまうのはもったいないと思って、保留して帰ってきた。
 さてどうしたものかと思って、近所の板金修理屋さんに声をかけてみた。すると、すぐに部品を調べて、
「新品だと1万8千円位しますよ。中古を当たってみましょうか」と言ってくれた。
「はあ、お願いします。」そうだ、これだと思って、すぐに頼んだ。 数日後、部品を持って訪ねてきて、
「部品が6千円で、消費税と工賃で7千円ちょっとになります。よろしければ、今、付けていきますが…」よろしいよろしい、よろしくお願いしますと相成った。
 日産はせめて、選択肢を示して欲しかった。新車で儲けて、修理で儲けて…と考えるより、客の状況に合わせて、資源の節約も考えて、顧客も社会も満足する対応を心掛けることが会社の発展につながるのではないだろうか。


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現代不要品処理事情 [生活エッセイ]

(生活関連の記事は、前立腺治療と関係なくてもここに載せようと思います。)

 台風一過の17日、友人のD君は、竜巻に襲われた市内の江南地区に、ボランティア活動のため出掛けていた。まず、市役所に、ボランティアセンターが立ち上がっていることを確認して出掛けたにもかかわらず、待たされ放しで何も活動できず空振りに終わってしまったそうだ。(詳しくはhttp://blogs.yahoo.co.jp/dob_20010312/68229787.html をご覧あれ)
 友人が殊勝な(しかし残念な)一日を過ごしている間、自然災害のなかった我が家に、別の友人A君がボランティアで訪ねてきてくれた。被災を心配したわけではない。空き時間があったら、軽トラックで来て、我が家の片付けを手伝ってくれないかと頼んであったのだ。
 軽トラックで運び出したいものは、壊れた洗濯機2台とプリンター等だった。洗濯機の1台は2階のベランダで使っていたもので、そのままベランダにあった。大型でかなり重かった。30キロくらいはあった。そこで、これにロープをかけて持ち易くして、不用品が置かれて狭くなっていて、途中で曲がっている階段を、2人でよろよろしながら、ちょっと足許を踏み外したりしたら大変なことになりそうな不安を克服して、やっとの思いで外に運び出した。トラックの荷台に載せるのなどは、もう、楽なものだった。もう1台は、既に庭に出してあって、重さも20キロぐらいで、なんのスリルもなく積んでしまった。
 汗かき仕事はもうないだろうと着替えをし、しゃぶしゃぶの食べ放題で栄養を補充し、デザートのソフトクリームを舐め、コーヒーで昼食を締めくくった。
 それから再び軽トラに戻り、残りの品を2つ、3つ積み込んで、スマ**コーポレーションという廃品引取り業者のところに行った。以前行ったときには、順番待ちで2、30分待たされたが、今回は行列はなく、前の人のトラックが出るとすぐに、外人従業員さんから手招きを受けた。積み荷のうち、テレビが200円、友人が積んできた小型の冷蔵庫が、約500円の引き取り料が掛かるがどうするかと尋ねられた。半ば承知していたので、処分を依頼する。すると積荷はガラガラと落とされ、すぐにメモ書きが渡され、事務室で精算と相成った。女性事務員が、洗濯機が200円、他の雑品がキロ13円で39円、計239円、一方引き取り料が6百何がしで、差し引き4百何がしのお金を頂戴しますと説明。もしかしたら昼飯代ぐらい出るかもしれないという淡い期待はあっけなく外れたが、1個数千円も掛かるリサイクル料金を支払うよりはよほどましだろうと、さっさとお金を払い、帰路に着いた。
 帰り道、あんな思いをして積み込んだ重い洗濯機が200円だったかと、計算書をよくよく眺めてみると、単価200円で、数量が1となっている。「おいおい、2台運んだぜえ、それはないよなあ」と意気投合した。で、家に帰ってから電話をかけた。「フェアプレーで行きましょうね、2台あったでしょう?」やや時間をおいて、「間違ってました、200円取りに来てください。」との返事。「後で、ついでのときに寄るから、わかるようにしておいてね」で落ち着いた。危うく、危険を伴う重労働が無になるところであった。200円で報われるわけはないのだが、長年放置されてベランダの一角を占めていた物が取り除かれ、しかも200円になったということは、この日の大きな収穫なのであった。
 持つべきものは友達である。この頃そう感じることが多い(そんなことばかりしている?)。
 さて、軽トラ付きの友達と別れた後、古着を大量に処分しに出掛けた。これは、自分の車のトランクに積んで。亡き父の背広やコートが主である。着られそうなものはなるべくとっておくのだが、小柄だったために、残念ながらみな着られないのだ。それに、開かずの箪笥に数年入っていたため、どうしてもかび臭い。1つ2つ残して、あとは捨てるしかないという結論に達していた。それでも、燃えるゴミとして出すのは忍びないのだ。そこで、安くてガソリン代にもならないという評判ではあったが、とある衣類のリサイクルショップに持って行ってみた。ずっしり重いビニル袋5つの査定結果は、1キロがキロ50円、他の23.5キロがキロ10円という評価で、しめて285円とのこと。店で再販できるものはないが、外国で再利用する資源になるとのこと。安く見積もられて大変残念だが、ただ焼却炉にくべるよりは物が浮かばれるような気がして、腹立たしい気にもならず、置いてきた。
 片付けは進んだが、何か充実感に至らない、可もなく不可もない、現代生活の一面を味わったような一日だった。


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