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花待つ頃の備忘録 ① グランドピアニスト君 [生活エッセイ]

 今日は3月の中頃だから、2ヶ月ほど前の話になる。娘が家で子育てに勤しんでいたときのこと。こんな素晴らしいおもちゃが世の中にあるのかと感心したものがある。グランドピアニストという名がついていた。3~40cmほどの卓上ピアノで、自動演奏してくれる。普通の卓上ピアノは鍵盤の数が少なく、子供の手で弾ける程度の大きさになっているが、これは、本物の縮小版(6分の1とのこと)で鍵盤の数は減らされていない。その分鍵盤の幅が狭くなり、わずか4ミリ程度だ。演奏もできると説明書きにはあるが、爪楊枝でも使わない限りそれは無理だ。
 演奏できない代わりに、名曲を100曲も内蔵していて、勝手に奏でてくれる。それが、まるで透明の妖精がそこにいて、忙しく手を動かして弾いてくれているかのように鍵盤が正確に(たぶん)動く。それを見ながら聴くせいか、音も繊細で歯切れよく、生演奏を聴いているような気分になる。鍵盤が機械仕掛けで動く音が、シャカシャカ・クシャクシャとやかましい点は、このおもちゃの欠点と感じる人も少なからずいるだろう。
 孫守りの爺はこのグランドピアニストの演奏がすっかり気に入っていて、赤ん坊を頼まれて寝かしつけるときによくかける。歯切れのよいピアノの音とシャカシャカ音では、赤ん坊がうるさがって寝ないのではないかと思いきや、これがそうでもない。まず、どんな曲が演奏され、赤子が聴かされているかというと、「トロイメライ」「月光の曲」「チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番」「ショパンの雨だれ」「モーツアルトの交響曲第40番」「アイネクライネナハトムジーク」という具合に私でも知っているようなポピュラーな曲が続く。赤子はこの辺りの小気味のよいリズムが聞こえてくる頃は、もうたいていは眠っている。もっとも、音楽の効果なのか、抱っこの揺れが眠りを誘っているのか、グズっても埒が明かないと諦めているうちに寝入ってしまうのか、真相はわからない。
 さて抱いている爺は、もう少し抱きながら聴いている。急いで降ろすと目が覚めてしまって、最初からやり直す破目になりかねない。曲のほうは「サンサーンスの白鳥」「ハンガリー舞曲」、銀盤で真央ちゃんが踊った「愛の夢」「モーツアルトのピアノソナタ第15番」、そして「美しく青きドナウ」「モルダウ」と名曲が続く。この辺りでさすがに腕が疲れてきて、赤子をベッドに降ろす。少々雑な置き方をしても、もう大丈夫だ。
 爺の役目はこれで終了だが、まだグランドピアニストから離れない。まだまだいい曲が流れてくる。「華麗なる大円舞曲」「ショパンのノクターン第2番」「ペールギュントから朝」、そして「乙女の祈り」とくる。この辺りが感動のピークで「ヴィバルディーの四季から春」「エリーゼのために」「軽騎兵序曲」と余韻をつなぎ、そろそろ立ち去る準備をし始める。眠ったからと言って音楽を消してしまうと、その変化で目が醒めてしまいかねないからボリュームをゆっくり絞っていく。シャカシャカ音は、ほとんど下がらないのだが、考えようによってはほどよいリズム音で、他の物音をカムフラージュするのに都合が好いような気もする。そう思って、演奏し終わって自動的に切れるまで点けておく。ただ、このピアニスト君の最大の欠点は、演奏が終わって電源が切れる直前に、チャン、チョン、チャン、チロリンと「これで演奏終わりです」という和音を発するところだ。演奏が終わって完全に静かになった後、この合図の和音が響く。これは寝ている子を故意に起こそうとする悪魔的仕掛けだ。私が寝かしつけた後「この音ですぐ起きちゃったよ」と何回かクレームをつけられている。そこで、グランドピアニスト君の上にタオルやら毛布やらを被せて、この音を和らげる作業をしておかなければならない。
 さて私のクラシック観賞歴だが、クラシックに限らず、ステレオ装置にレコードやCDをかけて聴くようなことは、もう何十年もせずに過ごしてきた。ウォークマンのような個人的に聴く道具も持たずじまいだった。だから、ここに知った風に曲名をずらずら記したが、聴いてすぐに曲名が言えるものは少ししかない。読者の方がご存知かと思って、取説のリストから書き写したものである。そのくらいの観賞歴だから、このグランドピアニスト君の音楽的価値も、実は当てにはならない。この点は、友人に生身のピアニスト君がいるので、近いうちに鑑定してもらおうと思っている。
 そんな訳で、こんな名曲の数々を生演奏(偽物にしても)でたっぷり聴けるなんてことは、孫守りでも仰せつからなければ体験しなかったことであるが、そんな望外の喜びを噛みしめながらふと思ったことがある。
 西洋の音楽は素晴らしい。音階を定め楽譜を考案し、リズムに乗せてメロディーを歌い、多様な楽器を用意して和音を響かせる。その方式もさることながら、奏でる曲の質の高さと量の多さには、諸民族を圧倒するものがある。日本も、明治以降西洋文明に触れ、それに習い、それを摂り入れてきた訳だが、西洋文明の優位性を悟った幾つかの理由の一つに、洋楽という素晴らしい文化があったものと、今さらながら思うのだ。文明が広がっていった直接的な要因は、科学技術や経済の先進性だろうが、その背景に、深みのある文化を擁していた。自由や平等、民主主義なる理念も、西洋文明が育んできた魅力的な文化遺産のように思える。
 だが、今の西洋文明の盟主たるアメリカはどうなのだろう?かつてのような諸民族を納得させる魅力的な文化を持ち合わせ、それに磨きをかけている、そういう背景が果たしてあるのだろうか?良く言えば経済合理主義だが、悪く言えば物欲・支配欲だけが突出してはいないか?ふとそんなことを思ったのだった。アメリカ映画に見られる活力や大胆さは認めるが、クラシック音楽に秘められた優しさ・繊細さは、もはや望むべくもないのだろうか?
 となると、この文明の行く末が気になってしまうのだ。
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